見出し画像

より良く生きるために―安楽死

2016年に初めて安楽死について知った。きっかけについてはまた書きたいと思う。

現在36歳で、会社の健康診断もほぼA。持病や病気の症状はなし。食事(自炊・飲酒なし・喫煙なし)や生活スタイル(11時前に就寝・運動習慣)を鑑みても健康だと思う。

<人生プラン:ネットの情報は私にとって偏っていた>

独身で子供はいない。今私は結婚したいとは思わないし、していない自分に引け目も感じない。子供は社会の宝だと思うし、ぜひ子供のために私の税金を使ってもらいたい、と心から思うが、私自身の子供が欲しいとは思わない。なので、30歳の時から、一人で生きていくためのキャッシュフロー(収支)を考えるようになった。金融やコンサル業界にいたものの、リテール(個人)向けの業種ではなかったことから、こうしたライフプランのキャッシュフローリテラシーがなく、ネットを中心に「生きるために」必要な資金や資産を調べた。

が、殆どのサイトでも、シミュレーションはほぼ、80年~100年生きることが前提とされていて、80年~100年生きるに当たって医療費がこれだけかかるから、これだけ資金をためる必要がある、というFPさんたちの言葉が多かった。医療費として私が調べたのは、祖父母に既往があるガンや認知症。家族がいないことを念頭に、受けたい支援・サービス(入院して個室に入りたいetc)を色々考慮すると月間30万~は掛かることが分かった。

また、調べたネット上のシミュレーションの前提となる人物は常に、「家族持ち」が前提だったことは、ややこしかった。夫が働いて妻がサブで働いて子供が二人いる事例しか見つけられず、控除や生活費の考え方などブレークダウンを要した。一方でこれは、ネット情報を鵜呑みにせず調べることを要したので、とても勉強になった。*このこと自体は、世の中の家族構成が基本こうなので、より多く読んでもらうためには正しい情報戦略だと思う。

<「私」が「私らしく」長生きするには大金がかかることが判明>

色々調べてから、「私」についてシミュレーションしてみた。借金はしないポリシーなので、ローンで家を買うことは最初から除外。賃貸で定年まで働き、定年後に家を買えば、賃貸での「おひとり様老人お断りリスク」が減ると思ったので、これを前提とした。

65歳まで働いて定年を迎え、老後「東京」で家を買って、その家も一人で身体が不自由になっているリスクがある65歳の私が安全に住める家+設備の整った良い病院が近くにある家は、いずれも最低5000万はした。

諸々(公的年金も)踏まえて、老後「尊厳を持って」一人で自立して生きていくためには、最低1億円いることが分かった。30歳の時のシミュレーションだったため、まだまだ十分「未来や可能性」があると思い、はっきりと「稼いで投資信託を買う」ことを決意する。

業種上、株や債券の投資ができなかったので、とにかく収入を増やすことを考えて働いたり、より給料の高い会社に転職をした。

<退職後ではなく今を自由にする働き方>

その時期に並行して、親友が定職を辞めて、自由な働き方を始めた。きっかけは「強いチームはオフィスを捨てる」という本。働き方の見直しだけではなく、親友が最も感銘を受けたのは、退職してお爺さんになってから、病院のベッドで、自由な時間にサーフィンをしたかったという夢の場面。勧められて読んだ時、目から鱗だった。同じ時期に、健康だった祖母が亡くなった。80を過ぎても美味しくご飯を食べていて彼女が、病を患って、何を食べても美味しくない、という姿は本当に気の毒だった。

皆自由な時間が「老後」にあること(あるべき)という前提で、人生を設計する。でも、この本は「サーフィンが出来る、美味しいものが食べられる健康な今」自由なことをなぜやらないのか?と突き付けていた。でも当時は、「私はSEじゃない」とか、「金融は誰もリモートなんかやっていない」とかを理由に、私には絶対できないことだと思っていた。起業をして自由な時間を手に入れることを考えたが、起業をするということは、(稼ぎたい私にとって)、より責任が増え、忙しくなることを意味していた。そして、それは私にとっての幸せにつながるか確証が持てなかった。

<安楽死の可能性>

将来のためにガムシャラに働くことに違和感を感じていた。今、私はやりたいことを思いっきりしたいのに。でも100年生きるにはお金が必要。今楽しめるかもしれないけど、100年後苦しむのはあなただよ、と心の中で禅問答を繰り返していた。

その時に安楽死を知った。

私は、社会に迷惑を掛けず、「今」幸せである自分が「将来の不確実性」に囚われず、「今」の幸せを噛みしめて、国や自治体、家族や友人から、「自律」して、私を私らしく生きるために、スイスの安楽死という方法を知って、2016年当時登録したいと思った。無駄に人生100年を想定して、病気リスクを軽んじたり、重んじたりして、キャッシュフローシミュレーションに明け暮れるのを辞めた。何故なら、不確実性は不確実性であり、知りようがないため、将来「私の」貯金がなくならない、と断言できないから。また「私」ではない他の誰かに、殺してくれと言わざるを得ない状況まで、もしくは、「私」が首を吊りたくなるような状況まで、絶対に我慢をしないことに決めた。なぜなら、私が日本国民であって、日本国内の家族や親友と関わる限り、刑法第202条で嘱託(同意)殺人罪に該当してしまい、大事な人達を巻き込みたくないし、大事な人ではない赤の他人であったとしても、日本国民として、心から誠実にこの刑法を守りたいから。そして、首を吊るという行為は、やはり、今幸せを心から感じていて、心身健康な私には、将来どんなになろうとも、迎えてほしくない結末だから。

念のため記載するが、私は、現時点でも、将来においても、人生に絶望している訳でも、ショックなことがあり生きることに自信が持てないわけでも、私が高齢者になる・でいることがだめだと思っている(単純すぎる思考回路だしありえない)わけでは、全くない。むしろ逆だ。私は、今私が知りうる限り一番幸せだと思っている。私の意思で、私が安全に社会に迷惑を掛けず、合法に、私が今を心から幸せであるために、「私が」安楽死をしたいと合理的に結論づけただけだ。これは社会的にそうなってほしい、というメッセージでもないし、皆が安楽死できる社会を望むという押し付けでもない。個人的に主張の右左を問わず、独裁や全体主義は一番苦手分野だ。

私にとって、命は本当に大切。だからこそ、お金や将来という不確実なものに縛られず、真剣に自分のやりたいことをしたい。私の大事な命を、「今」真剣に、「私」のしたいことをしている自分で満たしてあげたい。そして、社会の構成員として、他の構成員を尊重し、誠実に法を順守したい。これが私にとっての生きることである。この「生きること」が実現するためには、私にとっては、「安楽死」という選択肢が不可欠だった。従って、スイスのある団体と今登録に係るメールのやり取りをしている。また、パンフレットに記載されていた、彼らの理念を読んだ感想なども書いていきたい。自殺や安楽死を勧誘している内容でも、金儲けしようとしているような文章でも全くなく、むしろ、尊厳を持った自己決定と生きることをどれだけ重要視しているかが、伝わってくる文章だった。

孔子の言葉:

子曰、朝聞レ道、夕死可矣(朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり) 朝に道を聞いて会得したなら、その晩死んでも心残りはない

生きるって、こういうことかな、と私は思う。真剣に毎日進みたい道を探求すること。孔子はこの文章で死ぬことを推奨している訳ではない。それは明白だ。私にとって生きるということは、死ぬことと不可分であるだけなのだ。より良く生きるために、死を大事にしたい。死を大事にすることは、命を大事にすることだから。

この記事が参加している募集

#お金について考える

37,802件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?