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名字が変わったら、見える世界もちょっとだけ変わった。

 つい先日、10月のとても縁起の良い日に結婚した。
 相手はもちろん、あの寿司を作った恋人である。


 すでに数年間同棲をしていたし、同棲をはじめる時に彼とわたしは結婚する年齢をざっくりと決めていたので、それほどサプライズ感はない。生活もほとんど変わらない。
 
 けれど、1つだけ大きな変化があった。
 それが、名字だ。

 なんとなく、わたしが結婚する頃には、夫婦別姓が選択できるようになっているのかなと思っていたが、残念ながら2021年の日本でそれは叶わなかった。
 というわけで必然的にわたしと恋人、どちらかの名字が変わることになる。
 お互い強い主張はなく、「二人にとって一番良い選択をしたいね」という軸を持って話し合いをすることになった。

 そうは言いつつも、わたしは心のどこかで「まあ彼の名字になるんだろうな」と思っていたような気がする。

 実のところ、わたしは生まれてこのかた自分の名字がそこまで好きではなかったので、「いつか素敵な名字の人と結婚したいなあ」なんて小学生の頃から考えていたクチである。
 自分の名字が気に入っていないことは両親も知っている。二つ返事で「新しい名字いいね〜」なんて言ってくれると思っていた。
 けれど、その考えを改めて両親に伝えるとわたしの予想に反し、極めて真面目に「名字がかわいいとかかわいくないとかで決めるのはどうなの?」という言葉が返ってきた。

 言われてみれば確かにそうである。
 己の浅はかさを指摘されたような気がして、わたしはばつが悪くなった。
 その後、両親が当時それなりに考え抜いて母の姓を選んだことを初めて聞いた(このエピソードは別の機会に書こうと思う)。
 
 こういった話をする機会はなかなかないので、両親の新しい一面を知り、家族の仲が深まったような気がした。

 一方、恋人側の両親にも意見を聞くと、やはりこちらも相当な思いを込めて名字を選択していたことを知った。
 
 わたしが思うより、名字とか名前とかは重要らしい。
 わたしと恋人は、「ちゃんと考えないとねぇ」と顔を見合わせた。
 お互いの親の温度感に触れ、身が引き締まる思いだった。

 名字について考えていく中である1つの疑問が浮かんだ。
 それは、「途中で名字を変えることはできるのか」ということだ。
 つまり、最初は夫の姓を名乗り、生活していく中で妻の姓に変えることができるのか、という疑問である。
 ばかばかしいと思われるかもしれないけれど、どうしても気になったので、役所に訪れた際に窓口の職員さんに尋ねてみた。

 すると彼女は少し困ったような笑みを浮かべて、「うーん、できなくはないんですけど…」と答えてくれた。
 できなくはない、つまりはできるということ。なんだ、それなら、と思ったのも束の間、数秒後にわたしは顔をしかめることになった。

 職員さんの意見をまとめると、こうだ。

 途中で名字を変える方法は3つある(最初に夫の姓を名乗り、途中で妻の姓を名乗る場合)。
 
 1つ目は、「夫が妻の両親と養子縁組すること」。
 養子縁組をすると、夫が妻の両親の息子になり、名字が変わる。次に、筆頭者である夫とセットで妻も名字が変わる、という仕組みだ。妻は元の名字に戻るだけなのに、微妙にややこしい手順を踏むところがなんとなく「法律」っぽい(頭のわるい感想)。
 少し前までは「婿養子」なんて言って、夫が婿に入る時に妻の両親と養子縁組することは珍しくなかったのだろうけれど、なんとなく現代の感覚的にはちょっと大それた印象を受ける。あと、多分相続権とか色々変わってくるはずなので、軽いノリで選択できることではない。

 2つ目は、「家庭裁判所の許可を得ること」。
 一気に難易度が上がった。これは、「今の名字だと生活に支障が出るんです!」ということを証明できれば許可が得られるらしいけれど、なかなかに非現実的である。なんとなく変えたい、とかじゃ絶対だめだ(とは言え、証明できる理由がある人はやってみる価値ありかもしれない)。

 3つ目は、「1回離婚して改めて結婚すること」。
 これは単純だけれど、最終手段でしかない。なんて言うか、意表を突かれた気分である。そうか、そういうやり方もあるのか……。
 ただ、これから結婚する身としては「そっか〜!離婚すればいいのか!」と明るく捉えることができなかった。

「うーん、できなくはないんですけど…」の意味が分かった。

 できなくはない≒できない、ということである。

 つまり、離婚しない限り、わたしは一生自分が選んだ名字で生きていかなければならない。
 それは当たり前なのだけれど、こうして実際に名字を変更することが困難だと知ると、一気に現実味が増した。
 
 やはりわたしが思うより、名字とか名前とかは重要らしい(2回目)。

 10月になった。このご時世の中での結婚準備はそれなりに不便で、なかなか思うように行かないシーンも多かったけれど、それでも周りの人にあたたかく見守られながらその日を迎えることができた。
 薄い一枚の紙。そこにはわたしの字と、恋人の字と、お互いの父親の字がのっている。今まで生きてきた中で、一番「重い」紙を見た。

 名字は、「夫の氏」にレ点をつけた。
 わたしは、自分の名字を変えることを選んだ。

 結局、女側が名字を変えるんかい!とは思わなかった。
 自分たちなりに、時間をかけてちゃんと悩んで出した答えだ。お互いの両親に意見を聞いたことや、二人で話し合ったことが無駄だったとは思わない。
 あの時間があって、それぞれの両親の思いを知ることができたからこそ、清々しい気持ちで婚姻届を提出できたのである。

 つまり逆に言えば、あの時間や二人の話し合いがなければ、悔いのない選択だとは言えなかったかもしれない。



 名字が変わっても創作活動は旧姓のまま行うし、そう突然新しい名字が必要なシーンはないだろうと思っていたのだが、そんなことはなかった。

 名字が変わると色々な機関で色々な手続きが必要となるので、結婚早々新しい名字をそれはもうたくさんの書類に書きまくった。

 というわけで実はここからが本題なのだけれど(前置きに2000文字以上使ってしまった)、新しい名字になってびっくりしたことが2つある。

 1つは、「画数の少なさ」。
 実は、わたしの旧姓は1文字目が「9画」ある。
 これは世間的に見て、多いのかそうでないのかはわからないけれど、わたし個人としてはこれまで「画数が多いなあ」と感じることは一度もなかった。
 物心ついた頃からずっとこの名字でやってきているので、自分の名字を客観的に見ること自体そうない。
 テストではじめに名前を書くときも、学校の持ち物に名前を書くときも、ずっと当たり前に「9画」の1文字目を書き続けてきた。
 だからこそ、はじめて恋人、もとい夫の名字を書いた時は驚いた。
 
 彼の名字の1文字目は、「3画」なのだ。

 これも、別に驚くほど少ない画数の字というわけではないし、特に珍しい名字でもない(むしろ旧姓より人口が多い名字)。
 けれど、9画から3画になった身としては、なんだか変な感覚だった。
 気の抜けるというか、心許ないというか、手が「あれ、これで足りてる?」というような感覚になるのだ。

 ちなみに、実際に書ききるのにかかる時間を測ったら、旧姓の一文字目は2.59秒かかるのに対し、新姓の一文字目は0.59秒という短さだった。
 この時間は、そのあとに続く名字と名前でいくらでも巻き返すチャンスはあるけれど、ただやはり1文字目にかかる時間は、意外と体感的に重要な気がする。


 びっくりしたことの2つ目は、「字面の良さ」である。
 ここに来て発表するけれど、新姓の1文字目は「大」なのだ。そう、3画の、大。
 大とは、単純に意味が良い。大きい、多い、広い。力強さと雄大さと、清々しさを感じる字だ。とにかくプラスのイメージが強い。
 姓が変わってから、まだ少ししか経っていないけれど、それでもその短い期間の中ですでに「大」の良さをひしひしと感じている。
「大」という字は、書くだけで心地良いし、なんだか心にゆとりを持たせてくれる。
 漢字の成り立ちが想像しやすいのも良い。大。人が両手両足を大きく広げている様子からきているそうだ。
 しかも、書き方もシンプル。シュッ、シュッ、シュッ。全部、ほぼ一本線(ばかにしてるわけじゃないよ)。
 先ほど、3画という画数の少なさに、手が少し変な感覚になると言ったが、その感覚を相殺するほどの字面の良さが「大」にはある。
「大」と書くだけで、自分も大きくなったような気がする。1文字目に来るというのがまた良い。

 夫は、こんなに良い漢字を20数年間書き続けて来たのか。

 わたしが、テスト用紙に、持ち物に、「9画」の字をせかせか書いている間にも、彼は「3画」の「大」を、シュッシュッシュッと優雅に書いていたのか。
 愕然とした。
「大」という字は、書くだけで許された気持ちになる。
「大」からはじまるだけで、おおらかな心が育まれるような気がする。
「大」を書き続けると、自己肯定感が高まる気がする。

 このことを夫に伝えると、そんなことないと思うし考えたこともなかったと一蹴された。
 まあそうだろう。「大」を20数年間、ほぼ無自覚的に享受してきた彼にこの気持ちはわかるまい。



 そんなこんなで、新しい名字も結構気に入っている。
 それに、昔は旧姓が「かわいくないから」好きじゃなかったけれど、今ではやっぱりかっこいい名字ではあったかもとすら思うようになった。

 わたしは、名字を選択した。
「選択する」、「選ぶ」とは、多くの中から取り出すことを言うらしい。だから、すべての人がほんとうの意味で選択することができるようになるのは、もうすこし先の未来かもしれない。

 わたしは、自分のこれまでの名字やこれからの名字について、これほどまでにしっかりと向き合ったのは、恥ずかしながら20数年生きて来てはじめてのことだった。

 新しい名字を書くのはまだ慣れない。「大」を勢いよく書きすぎて、「丈」にしてしまうこともしばしば。
 でも、元々の名字がそうであったように、きっとこれから自分の身体に馴染んでいくのだろう。
 新しい名字を書くときの、このそわそわと浮き足立った感覚はいつか消えていくのだと思う。

 そのときわたしは、今のわたしの感情を尊いと思うのかもしれない。

 いつか、自分に子供ができたとしたら、そのときは名字について教えてあげよう。
 限られた選択肢の中だけれど、わたしと夫が二人で考えて選んだこの名字は、きっと世界一すてきな名字だから。



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