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音楽にあこがれる

 小学生の頃、仲良くしていた友人がピアノを習っていた。
 彼女は、頭が良くて運動神経も抜群で、明るく華があったので、クラスの人気者だった。
 そんな彼女には無意識の癖があったのだが、わたしは彼女のその様子を見るのが好きだった。

 彼女はふとした瞬間、静かに机の上に両手を乗せて指を踊らせ、ピアノを弾くそぶりをするのだ。

 帰りの会での退屈な時間や、授業中にプリントを配られるのを待っている時、お昼休みが終わる頃、彼女は決まって一人で机に座っている時に、そうやって思い出したように、机の上を鍵盤に変えた。
 その時、わたしは彼女と音楽のふたりきりの世界をそっと覗いているようで、不思議な心地だった。
 思えばあの頃から、わたしは人と音楽の親密な世界に、妙な憧れを抱いていたような気がする。

 高校生の頃、わたしの学校では弦楽器の授業があった。
 ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロの中から好きな楽器を選び、演奏する。
 学期末に行う弦楽三重奏のテストまで、ひたすら練習をするという授業だった。

 わたしは大きいものイコールかっこいいという単純な考えの持ち主らしく、迷わずチェロを希望したのだが、結局ヴァイオリンを担当することになった。
 なぜそうなったのかは忘れたけれど、ヴァイオリンも可愛くて良いかもと気持ちを切り替えたのは覚えている。
 当時仲の良かった友人がこれまた楽器の経験者で、学期末のテストに向けて、放課後の練習に付き合ってくれた。
 経験者の指導という、強い後ろ盾を手にしていたわたしだが、びっくりするほど演奏が上達しなかった。
 それでも、いつもはなかなか見れない友人の音楽を奏でる姿を見られるのが嬉しくて、その時もかっこいいなあなんて思っていた。

 来たるテスト当日。今でも忘れられないあの日がやってきた。
 テスト内容は、事前に組まされていたチームで1曲を演奏するというもので、ヴァイオリンはファーストとセカンドがあったような気がする。
 わたしはなぜかヴァイオリンのファーストを担当させられていた。
 今思えばこれがダメだった。メロディーラインはわたししかいなかった。
 ここまで読んだ方は、おおかた予想がついているかもしれないが、あえて言葉にする。

 わたしは、楽譜が飛んだ。

 前半は良かったのだ。震える手でなんとか音を鳴らし、頭の中でなんども音符を反芻させた。
 後半に差し掛かった頃、突然頭から楽譜が消し飛び、わたしの手は止まった。
 他のメンバーもわたしの異変に気づいてはいたが、テストはテストなので、それぞれ演奏を続ける。
 主旋律の消えた曲が、教室中に響き渡った。時間がひどく長く感じた。あれは地獄だった。

 わたしには音楽と仲良くなる才能がなかった。
 才能という言葉を使うのは良くないかもしれないので言い換えると、わたしには音楽と仲良くなる努力をする気がなかったのだ。

 もちろん、これが原因で音楽が嫌いになったということはないし、音楽に興味がないわけではない。
 憧れとは別にしても、好きな音楽はたくさんある。日本の音楽も、海外の音楽も好きなものは山ほどある。
 でも、知識はない。それに、聴く能力もない。それはやはり変えようのない事実だった。

 たとえば、好きなバンドの曲を聴く時、わたしは全体のメロディしか聴いていない。
 次に歌詞を見る。詞のことを考えるのは好きだ。好きなアーティストを追っていると、違う曲でも同じフレーズや似たような言い回しの言葉を使っていることが多々あって、「ああ、この言葉がこの人の哲学みたいなものなのか」と思うのだ。

 いや、違う。話が逸れた。

 大学時代、わたしが「この曲いいよね」と言うと、友人は言った。「ここのベースの音がさ、」と。
 いや、友人だけじゃない。世の中の音楽を愛する人はみんなそうだ。
「ギターがどうたら」とか「コード進行が同じ」とか、よく分からないことを言うのだ。
 ギターの音はどれだ。ベースの音はどれなのだ。なぜ、聴き分けることができる。
 わたしには、楽器の音を聴き分ける才能がなかった。この事実を知った時、ひどく驚いたのを覚えている。
 しかし、そもそも聴き分ける気がないので、これは未だに解決していない。

 ここまでつらつらと音楽の才がないということを主張し続けたが、だからと言って音楽への憧れは失せることはなく、むしろ「できない」からこそ、謎の幻想と憧れはさらに強いものとなっていった。

 大学生の頃、そんなわたしにこれまた吹奏楽部出身の友人が声をかけてくれた。
「それなら一緒にバンドを組もうよ」と。
 正直、夢のような誘いだった。かっこいい音楽の世界。自由に気ままに楽器を演奏する自分を想像する。
 しかしわたしの返答はノーだった。
「練習すればうまくなれるよ」という彼女に対して、わたしは「練習したくない」と言った。
 今思えば、いや今でなくとも、最底辺人間のせりふである。
 それは当時も自覚していた。しかし、この音楽に対する憧れと、かといって努力はしたくないという一見矛盾しているかのような主張は、確かにどちらも偽物ではなかった。

 そうなのだ。わたしは、音楽に憧れていたけれど、音楽に対する努力をするのなら、もっと写真をたくさん撮りたいし、もっと絵を描きたいと思っていた。
 結局、その程度なのだ。それは良いとか悪いとかではない。
 だってそれは多分、いろんな人が持っている感覚だとも、思うのだ。

 たまに、友人に「デザインができるからいいよね」とか「絵が描けるからいいね」と言われることがある。
 それは「一生もの」があっていいよねというニュアンスを含んで。
 しかしわたしはその時、思うのだ。
 わたしはデザインを学び、それを仕事にしたこともあるが、それはただの事実であり、わたしは結局デザインが上手ではない。
 それに、いくら少しできるからと言って、世の中にはもっとできる人がたくさんいる。そんなにいいもんでもない。
 自分の能力の低さに苦しんだことも少なくない。こんなものと、こんな自分と、一生仲良くなんてできるのか。

 しかしわたしは、そんな風に思うくせに友人にはこう言うのだ。「音楽ができるからいいね」「ずっと音楽と生きていくのだろうね」と。

 のだめカンタービレのドラマにハマっていた頃、随分と音大生というものに憧れた。
 だけどわたしは、ブルーピリオドという漫画を読んで美大生に憧れない。
 死ぬほどおもしろい。でも、同じ美大卒の友人と「しんどいね」と言い合っている。

 そう、きっと多分、その世界を愛して、そこに身を置こうと一度でも思ってしまうと、きっと「しんどい」のだろう。
(もちろん、しんどいだけじゃなく、ポジティブな気持ちもある。)

 しんどいのが良いとか悪いとか、偉いとか偉くないとか、そういうことではない。



 少し前、幼少期に大好きだった絵本が「ワルツ絵本」と呼ばれていたことを知った。
 3拍のリズムで物語が進んでいくので、ワルツ、だそうだ。
 そういうことを知るだけでも、なんだか嬉しい。

 わたしは音楽に憧れている。たぶんこれからもずっと憧れる。
 音楽を演奏することも、楽器を聴き分けることもできないけれど、音楽を愛している。
 でも、しんどくはない。そういう愛が、きっとある。



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