優しい逃避行
11月の誕生日で25歳を迎え、すぐに思ったことは「なんか、全然思ってた通りじゃないな?」である。
大人ってこんなだっけ。25歳ってもっと大人じゃなかっただろうかと首をひねってしまうのだ。
何かの記事でも触れたが、私の母が私を産んだのが24歳の時。そう、この年齢ですでに母は母だったのだ。
ここで自分と比べてしまうのはあまりにもナンセンスなので、それは避けようと思い直せるくらいは、変なところだけ大人になったのかもしれない。
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精神病を患い、会社を休職していた時は辛かった。辛いは辛いでもいろいろな辛さがあるけれど、自分でも一番びっくりしたのは「子供を見ると辛くなること」だった。
医者に家の近くを散歩してみるのがいいと言われたから、その頃は毎日どうにか外出することに必死だった。今思えば、必死になるベクトルを間違えている気がするが。
散歩といってもあまり遠くへ行く体力と気力は皆無なので、近所のコンビニでサンドイッチを買って、適当な公園のベンチで貪る。
運が良いのか悪いのか、私の選んだ公園は小学校のグラウンドと繋がっている仕様だった為、たくさんの子供達で溢れかえっていた。
当たり前だが、平日は暗くなるまで会社にいた頃は見れない光景だった。
大縄跳びをする子供たちを見て思った。わたしは昔から大縄跳びが大の苦手だったし、学校も嫌いだったな。
そうこうしているとたちまち、薄暗い感情がわたしを襲う。「なんだ、昔からずっと変わらないんだ、わたしは…」
目の前に咲くまばゆいほどの笑顔の数々に、「こんな大人でごめんなさい」と心の中で懺悔した。
◆
それからなんだかんだと会社に復帰して再度頑張ったり頑張れなかったりして、結局退職してからは、比較的平穏な日々が続いている。
将来は不安だらけだけれど、あの吐き気と動悸のハッピーセットみたいな朝を迎えることはなくなった。
根無し草のようなわたしだというのに、今でも頻繁に会って話す友人がいる。彼女は元いた会社の元同僚だった。
同じ部署ではなかったから、仕事で関わることは少なかった。
けれど、退職の際にかけてくれた「これからもよろしくね」という言葉に、「彼女とはこれからもっと仲良くなれる」とどこか確信めいた予感がしたのを覚えている。
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12月も半ばに差し掛かり、寒さも本格的になりつつある。
こともあろうかわたしたちは、こんな冬にピクニックをすることにした。
まさか20代も後半に差し掛かると言うのに、スケジュール帳に「12:00から公園でピクニック」と書き込む日が来るとは誰が予想できただろうか。
少なくとも、小学生の頃の自分には考えもつかなかっただろう。
お互いの家の中間地点の駅で落ち合い、ミスタードーナツで好きなものを好きなだけ買う。
こういう時、大人になってよかったなと思う。
公園の良さそうなテーブルに腰掛けると、どこから聞きつけてきたのか、待ってましたと言わんばかりにたくさんの鳩たちが集まってくる。
最初こそ「いえ、別にわたしたち、あなた方のお食事の邪魔はしませんよ。」と素知らぬ顔で迂回していたくせに、だんだんと距離が近くなり、明らかにわたしたちのドーナツを狙いだす。
「鳩って、胸のところ偏光パールでかわいくない?」と笑っていたわたしたちもさすがに危機感を覚え、一生懸命ドーナツを死守しつつ、時々無性におかしくて笑いながら食事を終えた。
その時のわたしたちは〝大人〟でも、〝社会人〟でもなかった。
わたしにも彼女にもそれぞれ抱えているものがあって、それは解決するのか、もしかしたら一生背負わなきゃいけない業なのか、だけど結論を出すのはまだきっと早いような気がして、静かに蓋をする。
これは現実逃避なのだろうか。
しかし彼女と一緒にいると、箸が転んでもおかしい中学生のように心の底から笑うことができるのだ。そうして、結局何を話していたか忘れてしまうほど。
近頃、大学時代に先生が言っていた言葉を思い出す。
「君たちは今人生においてとても貴重な『何者でもない』年齢です。この時間はとても大切で、同時にとても短い。」
当時はこの言葉の意味をあまり深く考えなかったけれど、社会人になってからは痛感した。
「〇〇会社の」「妻の」「母親の」…大人になるにつれ、色々な肩書きが付いて回る。
それは自分を守ってくれる時もあるけれど、たまに酷く重くのしかかり、自分自身が押しつぶされそうになる。
たしかに、背負うものもなく「何者でもない」あの時代は、ひたすら純粋に生きていたような気がする。
だけど私は彼女と過ごすたびに思うのだ。何かを背負って、何者かになろうとしているのは自分だった。
だから、きっと何者でもない自分に戻れる瞬間はいくつになってもきっとある。
言い換えるならば、いくつになっても青春はできるということ。
それは1日だって、1時間だって、いや1分だっていいのだ。
大人になっても、会社を辞めても…、辞めたからこそ気づけたのかもしれないけれど、
それはずるいことではないし、誰にも非難できないことなのだと思う。
自分が何者でもなくてもいいよと笑ってくれるひとがいるのなら、それはきっと優しい束の間の逃避行なのだ。
あの日公園で泣きそうになりながらサンドイッチを食べていたわたしはもういない。
それは、友人と寒いねと笑いながらドーナツを食べた思い出に塗り替えられたから。
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