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いつかドキドキがわたしを待っている


「うわあ、懐かしい」

 高速道路のインターチェンジを降りて、一般道に入ったところで、わたしと夫は思わず声をそろえた。

 すこし色あせた看板、ほどよい交通量の道路、趣のある建物。なにより、やわらかな町の雰囲気。

 かつて暮らしていた町が、あまりにも、昔と変わっていない風貌でわたし達を迎えて入れてくれたものだから、嬉しさと懐かしさが込み上げた。

 卒業制作展を見るために、数年ぶりにわたしと夫の母校のある地を訪れた。
 四方を山に囲まれた、のどかで美しい土地だ。

 出産を機に地元に移住したことで、隣県にある大学に車で行くことができるようになった。

 今年の卒業制作展は父と母も連れて、絶対に見に行こうと、出産前から決めていたのだ。



 今年は暖冬で、2月だというのにもう春がやってきてしまったのかと錯覚するような心地の良い気候の日が多い。

 わたしが学生の頃は、2月の卒業制作展といえば、雪が山ほど積もっていたイメージがあったから、今年はいくらか過ごしやすいように感じた。それでも、風はまだ東北のそれだったけれど。

 高速道路を降りると、大学はすぐそこだ。

「ここだっけ、曲がるの」

 運転をしている父が言う。
 すかさずわたしと母が、「そうだよ、ここ左」と返す。
 何年経っても、覚えているものだ。

 角を曲がる直前、見覚えのあるホームセンターが視界に入る。
 わたしが、心の中で、あ、と思うのとほぼ同時に、母が懐かしむような声をあげた。

「ああ、思い出すなあ。ママ、あなたの一人暮らしの準備を一緒にしたよねえ。あそこのホームセンターで、ホラ、紫の衣装ケースを買ったよね」

「ああ、あれねえ」

 未だに、実家のわたしの部屋に置いてある薄い紫色の衣装ケース。
 デザインは正直、十八やそこらの小娘が選んだだけあって、どこか幼く、今のわたしの趣味には合わないのだけれど、妙な存在感があって、おまけにどこも傷んでいないから、捨てることができずにいる。
 もう、あれから10年も経つのか。

 確かに覚えている。
 はじめての一人暮らしで、細かな生活雑貨をほとんど揃えていなかったから、現地で買おう、と母と二人で足を運んだホームセンター。

 慣れない土地、見知らぬ町で、期待に胸を膨らませながら、車から降りたあの時の風のにおいや、空気感そのものを。

 それまで、料理はおろか、家事のほとんどを母に任せっきりだったくせに、「なんとかなるだろう」という根拠のない自信だけがあって、ただひたすらに楽しみだった。

 ああでも、

「あんなにドキドキすること、これからの人生にあるかなぁ」

 ふっと息を吐くように、わたしの口から自然とそんな言葉がこぼれおちた。

 20代もそろそろ終盤。結婚をして、出産をして、いまは仕事もお休み中で。
 子育ては大変ながらも楽しく、新しい発見もあるけれど、真綿のようにやわらかく、されど時折、その緩やかな日々の中に取り残されそうになる。

 悲観しているわけではないけれど、素朴な疑問として、これからのわたしにあの頃のような、花開くのを待ち焦がれる蕾のようなドキドキとした気持ちを味わうことなんてあるのだろうか。
 そう思ってしまったのだ。

 すると、車中の皆がそれぞれ「あー」とか「うーん」と数秒唸ったあと、夫がぼそりと呟いた。


「老人ホームに入る時とか?」


 ふっ、
 父も母もわたしも、その場にいた全員が吹き出し、思わず笑ってしまった。

「老人ホーム?」

 その返答は予想外だった。
 自分で聞いておいてなんだけど、転職とか、起業とか、もっとなんかあるだろう、と思ってしまった。
 でも確かに、転職や起業というワードから香る、すこしギラギラした強めの圧は、あのうぶで青い季節とはどこか違う気もした。

 そうか、老人ホームか。
 その言葉を、頭の中で反芻する。
 あまりにも先の未来すぎて現実味がないし、だからこそその突拍子のないワードに笑えた。
 まあ確かに、新生活という意味においては同じようなものか。

 初めての一人暮らしを控えた18歳のときのあの気持ちと果たして本当に同じくらいにドキドキするのか、今のわたしには分かるはずもない。

 その分かるはずもないようなことに、少し救われた気がした。

 皆でひとしきり笑ったあと、母が「それに」と付け加えた。

「これから、あなたには娘ちゃんの入園とか入学とか……それこそ一人暮らしだって。色んなことが待ち受けているんだよ。ママは、あなたのこと、自分のことのようにドキドキしたもの」

 そういうものかね、と返すわたしに、母は嬉しそうに「そういうものだよ」と言った。

 慈しむような母の声色を聞いて、わたしはどうやら思い違いをしていたことを悟った。

 娘が生まれてから、その小さな真新しい命が嬉しくてまぶしくて仕方なかった。この子には未来がたくさんある。

 これからの人生はこの子が主役で、当たり前のようにわたしは脇役として見守っていくのだと、それはとても幸せなことだった。もはや覚悟のような勢いだった。

 でも、娘の人生の主役が娘であるように、娘の母という人生はわたしのものだ。

 だから、つまり、わたしにだって未来がたくさんあるということ。
 こんなに単純なことを、どうして忘れそうになっていたのだろう。

 これから娘に訪れる様々なことに、わたしもきっと同じように一喜一憂するのだろう。

 しかしそれは、自分が大学生になる前のあのキラキラとした気持ちとほんとうに同じなのだろうか。
 それも、わたしには分からない。

 でも、分からないことが嬉しかった。


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