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ストリートビュー帰省をしたら、優しい記憶を見た。


 昨年の春に新しい仕事をはじめてから、とにかくストリートビューを使うことが多くなった。
 
 ご存知の人も多いと思うが、ストリートビューとは世界中の道路や風景を360度すべての方向で見渡すことができるパノラマ写真の地図である。今でこそ皆当たり前に使っているけれど、サービス開始当初はかなり話題になったことを記憶している。
 当時、通っていた学校の先生が興奮しながら生徒に力説していた。
 わたしはと言うと残念ながらあまり興味がなく、「ふーん」程度の驚きだった。彼が力説していた内容はほぼ忘れてしまった。 

 それまで地図アプリなどで経路を辿ることはあっても、ストリートビューでじっくりその街や風景を眺めることはなかったので、仕事で使うようになってからその便利さに驚いた。現金な奴だけど、あの時の先生の興奮ぶりがなんとなく理解できる気がした。

「このパン屋さんかわいいな」とか、「この公園は春になったら桜が咲くのか」とか。行ったことのない場所でも、行ったことのある場所でも、なんだか見ているだけで少し楽しくなる。

 昨今のウイルス云々であまり外出をしなくなったものだから、一際そう感じるのかもしれない。

  
 ある日、わたしはいつものように仕事を始めようとして、ふと思い立った。

 「そういえば、あの街もストリートビューで見られるのか」
“あの街”と言うのは、わたしの故郷のことである。

 と言っても、わたしは幼少期(というか今でも)とても引越しの多い環境で育ったので、故郷が5つほどある。
 その5つのうちの4番目の故郷の話だ。その4番目の故郷には、7、8年暮らしていた。5つの故郷の中で最も長く居た場所だ。

  地図で見るとまあまあ海に近いけれど、潮風を感じるほどの距離ではなく、自然も少ない。デパートやレジャー施設なんてものは1つもなく、一言で表現するならば“平凡な田舎”と言ったところか。
 仮にも故郷だと言うのに、なぜここまで不躾な物言いをするかと言うと、単純にその街での良い思い出が少ないからだ。
 
 小学生時代の大半を過ごしたその街とわたしはとにかく相性が合わなかった。今になって思えば、特別な悪者というのは存在しなかったのかもしれない。けれど子供の悪意は、大人が思うより狡猾で残酷なものだということをここに記しておく。

 年季の入った嫌な思い出は多少なりとも脚色されていて、わたしの記憶の中のその街は、いつもなんとなく灰色だった。

  その街をストリートビューで見てみようかと思い立ったのは、ただの気まぐれだ。
 どうせもうその街には実家もないので、この先わざわざ訪れることなんてそうないだろう。ある種、怖いもの見たさに通ずるような感情だった。

 
 地図に、昔暮らしていたマンションの名前を打ち込む。瞬間、よく覚えている建物がパソコンの画面に大きく表示される。
 わたしの「ストリートビュー帰省」はわずか数秒で達成された。直接向かえば新幹線やら電車やらで何時間もかかるであろう場所に、あっと言う間に到着してしまったのだ。

 良い思い出が少ないとは言ったが、さすがに久しぶりの故郷を見ると不思議な高揚感を覚える。

 そうそう、ここだった。たしか、エントランス付近に金木犀が植えられていて、その香りだけは好きだった。
 大きなマンションで、同じ小学校に通う子供たちが大勢住んでいたものだから、些かわずらわしい部分もあったけれど。
 懐かしさと少しの嫌悪感を抱きながら、複雑な心境でくるくると街を散策する。

 いつものわたしならば、そのあたりで飽きてお開きにするのだが、その日はなんとなく違った。

  そうだ、このまま小学校まで行ってみようか。通学路を歩きながら。

  わざわざ、そこまで好きでもない故郷の通学路を辿るなんて、我ながら暇人なのかもしれない。
 けれど一度思い立ったら、やらなきゃ気が済まない性分なので、スイスイとマンションから小学校へ向かう道に出る。

 思い出の中の風景とは違って、ストリートビューが映し出すその街は皮肉なくらい晴天だった。

 ◇

  家から学校は歩くと30分ほどの距離だった。今ならば毎日30分も歩いて通うなど、考えもしない。小学生の足でこの道を歩いていたのかと思うと、当時の自分へ賞賛を贈りたい。
 ほぼ一本道だったこともあって、迷わずサクサク進むことができた。

  結論から言うと、故郷はほぼ何も変わっていなかった。
 わたしがこの地を離れてからそれなりに年月が経過しているのに、こうも変わらないものかと驚いたほどだ。
 しかし、そのおかげで道を辿れば辿るほど思い出が蘇ってくる。

 ここで当たり付き自動販売機の数字をひたすら眺めたなあ(買わないといけないことを知らなかった)とか、この場所には必ず爬虫類を連れたおばさんが現れるんだよなあとか、雪の日は帰りながら雪玉を投げて遊んだなあとか、雨の日はズボンに水が染みて脚にはりついて気持ち悪かったなあとか。

 あまりも鮮明に次々と思い出が過ぎる中で、一際印象深い出来事があった。

  ある日の帰り道、わたしは友達にランドセルを持たされそうになった。その子は可愛くて(名前も可愛い)、ちょっとわがままな女の子だった。
 わたしが「自分の持ってるから、持てないよ」と言ったら、その子は「わたしのは前に持てばいいじゃん」と言い放った。
 今よりずっと気弱だった当時のわたしなら、そこで「分かった」と言いなりになりそうなものなのだが、その日は違った。
 その日はわたしの他にも一人友達がいて、その子も巻き込まれそうになっていたのだ。

 これはもしかしたら誰でもそうなのかもしれないけれど、“自分を守る為”なら勇気が出ないことも、“誰かの為”であればいつもより力が発揮できることはないだろうか。
 その日のわたしはまさにそれだった。

 キッと彼女を見据えて、「自分で持てば?持ちたくないならこのへんに置いてけばいいじゃん。わたしは知らない」そう言った。
 これまでのわたしからは考えられないほど、強気な発言だった。
 彼女は一瞬ぽかんと呆気にとられて、「待ってよ!」と追いかけてきたのだ。

 それ以来、彼女からわがままを言われることはなくなった。作り話や昔話みたいなのだけれど、たしかにわたしの思い出なのだ。

 それまで、「○○ちゃんにこんなひどいことを言われた」と家で泣いてばかりの子供だったから、両親も「すごい!言い返せたんだね」と嬉しそうに笑ってくれた。

 その日は夜まで高揚感にどきどきと胸が騒がしかったのを覚えている。

 こんなこと、今の今まですっかり忘れていた。
 これまでわたしは、この街に傷つけられたことばかり覚えていた。
 けれど、確かに幼いわたしなりに戦っていたのだ。
 それをわたし自身が忘れ、ただ被害者のように生きていくことは、何より当時の自分に失礼なのかもしれない。

 そんなことをぼんやりと感じた。

 


  小学校までの通学路を辿り終え、はじめの場所に戻ってきた。昔暮らしていたマンションだ。
 そこであることに気づいた。
 ほとんど何も変わっていない故郷だったけれど、1つだけ大きな変化があったのだ。
 
 それは、マンションの前の大きな空き地スペースがすべて駐車場になっていたことだ。
 当時、マンションの前は大きく開けた空間が続いていて、そこは地域住民の為に開放されていた。(夏休み中はよくラジオ体操が行われていた)

「ふうん、残念だな」

  口をついて出た言葉に自分自身が驚いた。そうか、わたし、この場所が好きだったのかもしれない。
 この空き地には、ささやかながら思い出があるのだ。今でも覚えている。

  
 始まりは、「大縄跳びができない」と両親に泣きついたことだ。

 当時、周囲の女の子たちの間では大縄跳びが流行っていて、休み時間の遊びといえばもっぱらそれだった。
 わたしはと言うと、テンプレのように鈍臭い子供だったので当然できるはずもなく、いつも自分の番で躓き、周囲を苛立たせていた。
 友達に「大縄跳びのやり方を教えて」と頼めばいいものを、一丁前にプライドがあったのか、頼める雰囲気ではなかったのか、わたしはただ眉間にシワを寄せて己の順番を待つだけだった。

 そんな日々が続き、とうとうそのうちの一人に抗議をされたのだ。そこでわたしは、自宅に帰り両親に泣きついたというわけだ。

 ここまで書いて、まるでどこぞの猫型ロボットに泣きつく少年のようだなあと遠い日の自分を思った。

 「じゃあ今から練習しよう」

 わたしの嘆きを知った両親は、ひみつ道具を出してくれるわけではなく、シンプル且つ真っ当な提案をしてくれた。
 正確な時間は覚えていない。ただ、夕飯もとうに食べ終え、あとはお風呂に入って寝るだけだった。突然泣き出したわたしに、両親は大丈夫だよと笑って、その空き地へ連れ出してくれた。

 真っ暗な夜、他には誰もいない空き地に「たしん、たしん」と縄跳びが地面にぶつかる音が響いた。

 父と母が両側で縄を回す。いつもならばクラスの女の子がいる場所に両親がいることがどこか不思議であたたかくて、妙に安心した。その姿を大人になった今でも鮮明に覚えている。

 どれほどの時間を費やしたのかは分からない。けれど、両親の熱心な指導の甲斐もあって、わたしはその晩のうちに大縄跳びを克服することができたのだった。

 考えてみれば、幼い頃のわたしはできないことが多かった。
 鉄棒や水泳も苦手でいつも居残りをさせられていたし、同級生から突然心無い言葉をかけられた時も薄ら笑うことしかできなかった。
 苦い思い出だ。でも、その思い出にはいつも両親の存在があった。
 
 どれほど忙しくても、わたしの悲しみから決して目を逸らさないでいてくれた。休みの日に公園で鉄棒の特訓をしたことも、「次こんなことを言われたら、こう言い返してやりなさい」と言われ「そんな風に言えるわけないよ」と弱音を吐いて逆ギレしたことも。
 特別じゃないようで、特別な思い出の数々だ。

 夜、わたしが「大縄跳びができない」と泣いたって、「じゃあ今度練習しよう。だから今日は寝なさい」と諭すことだってできたはずだ。
 それは決して悪いことではない。わたしが親の立場であればそうするかもしれない。
 けれど両親はそうしなかった。「今からやろう」と夜更けにわたしを連れ出してくれた。

 今なら分かる。きっとわたしの苦しみを少しでも早く取り除けるように。笑って朝を迎えることができるように。そんな思いだったのだろう。

 そこまで考えて、ふと気づいた。

 あの頃の両親がまだ20代、30代程度だったことを。

 そうか、わたしはもう当時の自分より、当時の両親の年齢に近いのだな。

 今のわたしは大人になったけれど、ちっとも余裕なんかなくて、結局いつも慌てているし毎日必死だ。

 でも、両親もそうだったのかもしれない。
 あの街は、両親どちらともの地元ではない。恐らく二人で選んだ街だった。皮肉にもわたしとは相性の合わない街だったけれど、彼らにとっても“はじめて”が多いことであっただろう。そもそも子育てそのものが“はじめて”の連続だ。

 両親だって完璧ではなかったのかもしれない。でも確かに、彼らはまっすぐだった。


 わたしはすでに、故郷を“灰色の街”だとは思えなくなってしまった。
 
 子供時代のわたしからすれば、確かに苦い思い出も多かったかもしれない。傷つけられたことは忘れられるはずもないし、美化するつもりもない。けれど、あの街はわたしが幼い頃に住んでいた街であって、それだけではないのだ。

 あの街は、両親がわたしにたくさんの優しい思い出をくれた場所。
 そう思うだけで、故郷のことを少し愛せそうな気がした。

 

 ストリートビューを閉じて、わたしは数秒で現実世界に引き戻される。時間として、30分程度だっただろうか。不思議な旅行をした気分だ。

  今のわたしは、故郷とは全く違う場所にいる。

 それこそ縁もゆかりもない土地だけれど、夫と二人で選んだ街だ。
 夏は暑くて雪はあまり降らないけれど、自然も多くて気に入っている。

 この街でも思い出を残せるだろうか。両親がくれた、あの愛に溢れた優しい日々のように。

 わたしは、今のわたしであれば、できるような気がした。
 虚勢ではない。今住んでいる街も、昔住んでいた街も、まるごと愛せるような気さえする。

 特別である必要はない。完璧じゃなくても、1日1日を素直に生きていけばきっと特別になっていくのだ。

 その積み重ねを、いつか振り返った時に優しい記憶と言うのだろう。

 

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