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糸のない凧

まだ活発に人が動きそうになく、物音を立てることが忍ばれるような早朝、支度を済ました僕は「いってきます」と聞こえるか聞こえないかの声を発しながら家を出る。まだ家族は僕以外起きていないのだから、必要ない言葉のようだが、これは自分へのやる気のスイッチを付けるようなニュアンスの言葉だ。ここでスイッチをオンにしておくと、これから行く場所に着く頃には本調子で挑むことができる。


ドアを開けると、北風がこの時を待っていたとばかりに勢いよく滑り込んでくる。それに抵抗するかのように身を縮こませながら自転車置き場へと向かう。時期は正月の3が日を過ぎたというところだ。そして僕は高校3年生。この二つの状況を併せて考えてもらうと、来るセンター試験の為にクリスマスや正月に浮かれることに背徳感に近いものを感じながら過ごす羽目になった。失礼、クリスマスに浮かれようとしたことはなかった。このイベント、僕自信はいつもと変わらぬ平常運行で、心無しか、いつもより人の少ない図書館で有意義な勉強ができた。なんてことを思い返しながらシャカシャカと自転車を漕ぐ。もちろんこれから行くところも図書館だ。自宅では絶賛堕落仕樣な部屋になっているため、集中することができず、毎度図書館で勉強してきた自分だが、年末年始は如何せん図書館も休みということで何日かぶりの行路を、新年ということも相まってか新鮮な気持ちで通っていく。

ハンドルを持つ手はかじかみ、鼻からはひっきりなしにタラリと水が垂れてくるが、この環境で敢えて風をきってペダルを漕ぐことは嫌いじゃない。銭湯なんかに行った時のサウナの後の水風呂といったらいいだろうか、身が引き締まると同時に頭も冴える気がする。


図書館に到着。駐輪場に自転車を置き、学習室へと足早に歩を進める。外とうって変わって室内は、今度は氷の敷き詰められた風呂から湯の中へと入るかのような、幸せを感じる暖かさで冷えきった体をほぐしてくれる。そんなありがたみを覚えながらいつも自分の大体の定位置となっている席へと向かう。その途中で見知った後ろ姿、手入れの行き届いた黒髪を肩甲骨の当たりまで伸ばし、ここら辺りの学校じゃ頭のいい方に入る高校のセーラー服の上からカーディガンを羽織っている彼女を横目で確認し、僕は彼女の座っている2つ先のテーブルへと向かう。2つ先のテーブル、ここが僕と彼女の距離、だった。

だが今日は違う。思い切って彼女の向かい側、もとい斜め向かい側に座る。これが僕に出来た最高の勇気にして最高のアピール。そこからはひたすら勉強に打ち込んだ。 

ブー、ブー、ブー、ペンの動く音と、紙を捲る音で構成されていた空間が突如乱され、ハッと顔を上げる。異音を出した人は慌てたように閉まっていたらしいバックから携帯電話を取り出し、学習室から出ていった。バタンと閉まったドアを合図に静けさが戻る。集中が切れた僕は携帯電話を取り出し、時刻を確認する。もう午後一時を回っていた。そう確認すると急に腹が空いてくる。ちょうどいい、休憩がてらに昼飯でも食べようと思い、席を立ったところで斜め向かいにいた彼女がいないことに気がついた。どうやら丁度いいと思ったのは僕だけではなかったようだ。
 

図書館を出て、近場のコンビニで弁当と肉まんを買った僕は、これまた近場の公園のベンチに腰掛け、弁当を広げた。公園では父親と思われる大人が凧の揚げ方を子供に教えていた。まず父親が凧揚げを実演してみせる。糸の手繰りかたなどを子供に教えながら、上手い具合に凧を操っている。それを子供はわかったわかったと、早く自分でやりたそうに大人の人の服を引っ張っている。そんなやりとりをみていた僕の後ろから
「ねぇ、ここ、いい?」
と声をかけられ、後ろを振り向いた。彼女だ。ずっと2つ先のテーブルにいた。あまりに突然の出来事に何も言わずにいたことを了承と受け取ったのか、彼女は隣に座り、凛とした眼で僕を見つめて話しかけてきた。
「きみ、自習室でよく勉強してるよね。」
「うん」
「やっぱり大学志望?」
「うん」
「ふぅん、じゃあ、きみはどうして大学に行こうとするの?」
「・・・」
このとき僕はすぐに答えられずに俯いた。このような問いはよくされてきたことだし、僕だってそのときに就職とか学業など大人受けするようなもっともらしいことを言って通ってきた。しかし彼女はそのような僕の答えを聞きたくて聞いた訳じゃないと、なんとなく感じたから。

父親から少年の手に渡った凧は、最初は上手く空を舞っていたが、突然強い風が凧を襲い、少年は驚いて糸を手離してしまった。強風に吹かれた凧は不自然な軌道を描きながら空をされるがままに流され、公園の外にあった立派な杉の木に引っかかってしまった。
僕が顔を上げたときにはもう彼女の姿も親子の姿もなく、残っていたのは木に絡まった凧だけだった。

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