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和牛の解散を知った日、「永遠なんてない」と叫んだ

※すべて個人の感想です。



2016年のM-1グランプリから2020年頃まで、私はお笑いコンビ「和牛」のファンだった。

2016年のM-1で最終決戦まで進んだ和牛は、「ドライブデート」「花火デート」というネタを披露した。
その直後から和牛はブレイクして、多くのメディアで姿を見かけるようになった。
特に若い女性のファンが多かったと感じる。
私もそのひとりだった。

和牛のネタには、説得力があった。
きっちり隙なく練り上げた台本と、それを乗りこなす演技力。
そしてなにより、お互いの言葉を「今」聞いて、「今」応えていることが伝わってきた。
ただ台本を演じるだけでなく、生きたやりとりを積み重ねている。
その説得力が、笑いに繋がっていると思った。

私はネタだけでなく、ふたりの人柄も容姿も関係性もすべて好きだった。
「お笑いファンならネタだけを評価しろ」と言われるのかもしれないが、そんなことは知らんとばかりに、ネタ番組だけでなくあらゆる出演番組やラジオや雑誌を追いかけた。
関西地方でしか放送されていない「バツウケテイナー」というレギュラー番組も、有料配信サービスに加入して毎週欠かさず見ていた。
同じくバツウケテイナーにレギュラー出演していたアインシュタインやアキナの魅力も知ったし、大阪吉本の若手芸人にも詳しくなった。

けれど、私は2020年頃から少しずつ和牛の活動を追わなくなり、ここ数年はヒルナンデスに出ているのを時おり見ていたくらいだった。
もちろん嫌いになったわけではないけど、なぜだか自然とそうなった。

だけど和牛が舞台を中心に活動していることは知っていたし、この先も漫才師として舞台に立ち続けるのだと信じていた。
テレビではそんなに見かけなくても、劇場の看板芸人になって、年を重ねて大御所漫才師と呼ばれるようになるだろう。
漠然とそう思っていた。

和牛が解散すると知ったとき、私の口から飛び出たのは「永遠なんてないんだ!」という言葉だった。
寝る間際のベッドの中。夜も遅い時間の叫びだった。

和牛のふたりは「ずっと漫才を続けていく」と言っていた。
その共通認識がこの先もふたりを繋いでいくのだと思っていた。
そんな、まさか。

突然叫んでベッドにスマホを叩きつけた私を、夫は笑っていた。笑ってくれてよかった。
夫の胸に頭を押し付けて呻きながら、私は「夫と過ごすこの日々も、永遠ではないかもしれない」と強く思っていた。
この人と離れるなんてあり得ないと心底思っていても、信じていても、安心なんてできない。

夫婦や家族であっても、当たり前に手に入れられる永遠なんてない。
他者と長く一緒にいるためには、互いを許していかなければならないのだ。

和牛のふたりにどんな事情があったかは、もちろん知る由もない。
だけど私は「漫才師は夫婦みたいなもの」という言葉の意味を、痛烈に思い知らされた気がした。


和牛の漫才を、劇場の最前列で見たことがある。
ルミネtheよしもとの公演で、たくさんの芸人がネタを披露していた。

和牛の漫才は、やっぱり舞台上で「生きて」いた。

ルミネtheよしもとでは毎日公演が行われている。
頻繁に出演する人気芸人は、月に何度も、きっと飽きるくらいその舞台に立っている。
それでも和牛の漫才からは、「手を抜かない」という気迫のようなものが伝わってきた。

あの日、最前列の上手側からは、川西さんの姿がよく見えた。
スーツの裏地の青色まで、はっきりと見えた。
そのことを、今も忘れられない。



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