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【ネタバレ有】映画『ライトハウス』雑感

2人の灯台守が求めたものは何か

結論から言ってしまえば、異性(女性)への欲求だと推察できる。

一見すると2人の灯台守は「灯台の上に登る」という行為、あるいはその権利を手にすることによって、相手を物理的にも精神的にも見下してやりたいという「男性的な」権力への渇望が描かれているように見える。

言わずもがな、空に向かう建築は権力や神性の象徴とされる。あるいは形状から男性のシンボルと重ねられることもある。ではこれが異性への欲求の発露であるとはどういうことか。以下の2点を中心に推察する。

人魚

劇中序盤では人魚のモチーフ(木彫りの人魚や夢の中でのイメージ)が現れ、終盤ではそれは確かな実像を結ぶ。美しい女性として描かれる人魚はわかりやすい異性欲の対象として、登場人物も欲情をあらわにしている。
仮に、実在する女性をめぐる争いを描くのであれば、もう一方の男より「男らしく」振る舞い、相手を陥れる、より強い個体であると示すことは有意であると考えられるが、「人魚が実在している」という共通認識として描かれてはおらず、あくまで個人内のイメージに留められている。
よって登場人物たちは自分の内側に起こる男性的衝動の発散ができず、結果として相手より優位な立場になってやる、という欲求に変換されていったのではないだろうか。

また人魚と直接的な関わりはないが、劇中、酒を飲んで酔っ払った灯台守たちが一瞬キスをするかのように顔を近づけるが、すぐさま相手を突き飛ばすなど明らかにホモセクシャリティへの嫌悪感を強調している。これもやはり2人の異性欲を強調するシーンであると考えられる。

父殺し

最終的に若い灯台守は老いた灯台守を殺害し、灯台の自分のものとするが、これも明らかに父親を殺して母親を手に入れようとするエディプス・コンプレックス的な表現である。2人の名前が同じ(ファーストネームだが...)というのもこれを強化していると考えられる。
また『逃走論ースキゾ・キッズの冒険』著・浅田彰においても以下のような記述がある。

父なる神の絶対性と母なる大地の豊かさが垂直の軸と水平の軸をなし、両者の見事なバランスのもとで、子どもがまっすぐ四五度線を描いて育っていく、というわけだ。微動だにもせずそそり立ち、子どもにいくらでも胸をかしてやることのできる父と、いつでも家の中に待っていて、闘いに疲れた子どもをほどよく包み込んでやることのできる母。外の社会の荒波に鍛えられ、重みのある言葉で子どもの胸を打つことのできる父と、自然なほほえみを絶やすことなく、何も言わずとも子どもの心をわかってくれる母。こうした家族の理念型は、精神分析だけでなく、出来の悪いホームドラマの紋切型などを通じて、今もいたるところで語られ続けている。

浅田彰『逃走論ースキゾ・キッズの冒険』

ここでもやはり、一見すると灯台というモチーフは父性を表すようであるが、若い灯台守が老いた灯台守を殺し、その役割を奪う、ということは父殺しそのものであり、最終的に「闘いに疲れた」灯台守を光で「包み込む」シーンからも、母性(異性)を表すために用いられていると考えられる。

また冒頭に書いた通り、フロイトは長くのびるものを男性のメタファーとしていたが、その弟子ユングは湖畔に石でできた塔を建設し、晩年をそこで過ごした。

最初から塔は、私にとって成熟の場所――つまり私が過去、現在そうであり、未来にそうなるであろうものになりうる、母の胎内、あるいは母の像と思えた。

カール・グスタフ・ユング『ユング自伝 2―思い出・夢・思想』

と言葉を残していることからも、その塔が母性を象徴するものであることが窺える。
荒立つ海で長期間暮らす船乗りにとって大地は文字通り安寧の地となっていたはずであり、不安定と安定の境に屹立する灯台はそれらを二分するランドマーク(まさしくLand-Mark=大地のしるし)である。

強さ、支配欲といったステレオタイプな男性的権力の表出と、それの裏側にある弱さ、庇護欲が同時に描かれた作品だと感じた。

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