え?お母さんなのに恋愛するの?
(勝間和代さんの話を見て。子供を庇護する年齢の大人になった時点で、親になった時点で、子供にとって強者であるということの話)
こどものころの私は思ってた。
一度「お母さん」「お父さん」という存在になった人たちは、もうずっとお母さんとお父さんで、漫画や小説で見るような、「恋愛をする」ということからは卒業した存在だって。だって結婚して、好きのたった一人を選んだのだから。
ただそんなことを書いても、人生いろいろうまく行かなくなって「離婚」することもある。それは仕方ない。
けれど彼らはお母さん・お父さんであることには変わらないから、
あの若い時の、精神全て使ってしまうような、恋に不安定になる恋愛は基本的にしないのだろう。
人を好きにはなるだろうし、これからまた生きて行く上でのパートナーを得るかもしれないけど、若い頃みたいな恋愛はしない。
そういうものだと思ってた。
ただ、こう普通の人が書く文章を読む場が増えて、
思ったよりも、「パートナーがいても恋をする」とか「離婚してしまえば、子供がいても、昔のように恋愛をする」「恋愛の自由は許されるべき」とか
子供がいてもその人の人生は、その人の人生だからと
肯定的に捉える意見の多さに正直に驚いている。
もちろん、パートナーがいたって「あぁこの人素敵だな」「好きだな」と思う人がいても、それ自体は悪いことではない。
生きてくのに、好い人だなあと思う人が人生に多いに越したことはない。
作った家族にさらに穏やかに広がるように、
好きな人たちと好きな関係を作り上げて行くのは素敵だ。
けれど、そういう好きな人と会った時に
衝動を抑えられず、好きとかそういう情動を抑えきれず
恋愛に持っていってしまうのは、え?って思う。
恋したその衝動は抑えられるものではないというかもしれない。けど、あえて言う。え、大人になったのに???
そんな衝動さえも抑えられないんですか?
周りを見渡すこともできないままきちゃったの?って思ってしまう。
こんなことを書いているのは、
勝間さんの恋愛の公表を見てモヤモヤしてたからだ。
あれが肯定的に捉えられることに、
個人的にはなんだか気持ち悪さがあった。LGBTに関してではない。
彼女の恋愛が、今自由になるように訴えているLGBTであることを加味しても、なんでこんなにたくさんの人が拍手を送ってるのだろうって。それが、とても無責任な肯定に見えたのだ。
あの公表は、大人として、叱れる部分がある行為だろうと率直に思った。
彼女の人生は確かに彼女のものだ。
けれど、パートナーを作って、子供を産んでいる時点で
個人的には、もはや自分の人生を自分の人生というのは、多分生き物として少し傲慢なのではないかと思ってしまう。
親と子のつながりは、それまでの関係性とのつながりは、どうあがいてもきれないのだ。パートナーは別れることができる、確かにリセットできる。
ただ子供はそうではない、産んで産まれたつながりを切ることはできない。
いろんな人があれを勇気があることのように書いていて。
けれど私が思ったのは
・え、数回離婚しただけでも子供からすれば疲れるのに、恋愛数ヶ月の時点でSNSに載せちゃうの?
・家族には告げてあるの?、告げてあるとしたら、そんな恋愛テンション上がっている中の報告を、子供たちは聞かなきゃいけないの?
・センセーショナルな話題で騒がれるであろうことを芸能人ならわかってるのに考慮しないの?それが周りの人に与える影響を考えないの?
・もともと男性と付き合って子供を産んだ女性が、その性へのあり方を変えることを子供に理解してもらうのに時間を使ったの?それが、男性との恋愛の否認として彼女が捉えているとしたら(父との離婚ってだけで自分の生まれたことの否定に繋がるのに)デリケートに扱わないといけないのにその配慮はしたの?
・元々LGBTの彼女は、差別的な目線も知っているだろうに、その影響を考慮したの?ちゃんと家族への理解に時間を使ったの?
要は、ちゃんと家族(この場合は切っても切れない子供)と話し合って、家族にわかってもらって公表したのだ?
それをしてないのが(してたらこんな短期間でオープンにはしない)、なんだか記事を見てもわかりやすいぐらいの感じなのに、多くの人がそこに触れず、自由な恋愛だなんだで、いいねをしているのが正直本当によくわからなかった。
割とそのいいねを、新しい子育てだけでなく社会と通じた生き方って作っていけるといいよねと、普段から頭良さそうに書いている人たち(普段見方が素敵だなーと思っている人たち)までしていて、
え?意外にそんな表面だけしか見てないの?ってちょっと思ってしまった。
もちろん、子供がいてもその人の人生は、その人の人生だ。
育児で自分の人生を押さえつけるなんてことはしなくていいとは思う。
けれど、その自由は、社会と通じた自由な生き方は、大人側の責任と、子供を産んだのならその親としての責任と配慮を持てた中でのものだと思う。
そのはずなのに、
割とその先端を行こうとする人たちも、
その目線がなさそうで、結局はただ自由であることに肯定的であるだけなのだろうかとか、少しこの件で思ってしまった。
この数年、私たち大人側は、生きづらさや、子育ての大変さはSNSやスマホの流通を通して、お互いに痛みを分かちやすい環境ができてきていると思う。
「そうそう、わかる!」が溢れている。そして場合によっては、それが社会問題として扱われる。それを分かり合えることで、きっと多くの人やお母さんがほっとしながらも子育てをしているのはわかる。
「お母さんはそれだけで頑張っている。」
確かにそうだ。認められるべきだ。
「子供なんて産まなきゃよかったと思う時がある」
きっと、どのお母さんも頭によぎることはあるだろう。
その感情を否定されるべきではない。
でも、少しだけ思う。
もし、私が今の時代の子供で、大きくなった時にそのことを目にしたら?
その心は痛まないか?って。
それとも、今の子供達が大きくなる頃には、母性信仰なんてなくなって、「親の愛なんてほどほどだから育児なんて大変だしこんなの当たり前だよね。」と子供たちは言っているのだろうか。
私は、最初に書いたように、お母さんという存在は恋愛なんてお父さん以外とはしないと信じて育ったようなお子様だった。親が見せてくれる世界をそのまま信じていた。
そしてそんな親から「子供を産まなきゃよかった」と悲しみまじりに吐露された出来事は十数年たっても忘れられていないし、
母親に私以外の大切なものがあると知った時の悲しみもよく覚えている。
そういうものをこれからの子供にできるのなら味あわせたくはない。
もちろん親になったって、吐露ができる場所がなければ人はやっていけない。出せる場所は必要である。
しかし公の場で匿名性をなく吐露をする、
その子供への影響を大人は考える必要がある。
子供の時の辛さは、大人になるにつれて
「大人になればわかる」「今だけ我慢しなさい」に置き換えられる。
場合によっては「あの辛さがあったから今がある」と肯定される。
それは半分は、その方が大人にとって都合がいいからだと大人になって思う。子供の時はあんなに辛かったはずなのに、数年前はそれで泣いていたのに今は忘れてしまったから、あなたが受け入れればそれで済むからと同じ辛さを与える。
子供を持つ親になった時点で
子供を庇護する年齢の大人になった時点で。
いかに弱者でも、社会的マイノリティでも
私たちは彼らにとっての強者である。
けれど大人側、もしくは強者(SNS使い、他者に共感を求めることがうまいという点での)の辛さばかり社会問題として注目されてしまう。
この勝間さんのことで言えば、その子供である彼らの気持ちは注意もされないで、その発表が安易に肯定されてしまうということからもわかる。
そういうのを見ていると、私はなんだか不安に思う。
良い社会・自由な社会とすすめておいて、私たちは大人のそれを、子供にも許すように社会や個々の考え方を変化できるように運んでいっていないかと感じる部分があるからだ。
もちろん、世の中には子供の時の思いを語り吐露していく人もいる。そして社会に反映しようとする人もいる。けれど、多くの人は、良くも悪くも私たちは大人になると大人の気持ちがわかるようになってしまうし、子育てで多くの人が親の立場になってしまう。そうして子供の気持ちを忘れてしまう。
ただ書いていて、それも悪いことではないのが難しい。
私は、もう大人である。
子供産んでいないが、結婚もしていないが、私は大人側の人間だ。
けれど、目線としては子供側でありたい。
「子供なんて産むんじゃなかった」といった母の気持ちはなんとなくわかるようになった。母を許すこともできる。
けれど、その辛さを「子供だった私が受け入れてあげて救ってあげる」のではなくて、ちゃんと「次の子供達はどうすれば得ずに済むのだろう」、「もしくは得ることがしょうがないとしてどうやって生きていけるか」に焦点を当てたいなあと思う。
そういう意味では、母ちゃんが父ちゃん以外の人との恋愛を語ることは
まだ私の中では整理できていないもので、多分社会でも子供への影響を整理できていない中で、安易に肯定されないでほしい。
子供に負担を強いてもある程度は仕方がない、という前提で作られる
自由な社会は個人的には望みたくない。
再度書く。
子供を持つ親になった時点で
子供を庇護する年齢の大人になった時点で。
いかに弱者でも、社会的マイノリティでも
私たちは彼らにとっての強者だ。
大人側の責任を持てなければ、
自由で自立した人が集まる社会でなくて
自由を履き違えたこどもが溢れてしまう。
それはやっぱり違うのではないか、そう思う。
了
果ノ子
(といっても家族に関わる仕事をしていて、子供のためにという点で、大人の辛さが解消されてこそという部分がある。大人が大人になるのを支えるのは必要。肥大しやすい大人側だけでなく、こども側についても、できる限りそのケアが同時に進めばいいと思う。)
(子供を庇護する年齢の大人になった時点で、って書いたけど。これって何歳なんだろうなって思う。昔ほど、小さい子を年上の人が守れっていうのもないし。世の中の流れでは、未成年はこどもであるとして守るのが主流で、大人を求められるのって親の手を離れた20歳以降なんだよね。移行期って意識されていない気がする。)
(私自身、私はこっち側だとはっきり言えるようになったの30を超えた最近になってからだ。結婚も子育てもしていなくて、子供や育児や大人を語るのは、子供に関わる仕事をしていても、どこか後ろめたかったみたい。変な遊びがあった。)
(タイトル、含め多少煽っててごめんなさい。ただ、個人的にここ最近のモヤモヤをかけてスッキリ。)
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