読書と私。

こんばんは〜果名だにょ| ε:)
今回は「読書」について語ります。久々にゆっくり読む時間を確保しました...🐌

私は幼少期から「文字を読むこと」が好きだった。絵本や漫画、小説はもちろんのこと、例えば商品に書いてある細かい注意書きや栄養成分、本の1番最後に書いてある発行者や発行日に至るまで、ありとあらゆる文字を読むことが好きだった。だから私は他人よりも漢字が得意でよく読める人間だった。

小学生のときはその事実を褒めてもらえる機会が多く、文字を沢山読める本好きの自分という存在に酔いしれて「難しい漢字を読める=かっこいい」「難しい漢字=難しい本」というまぁ小学生がよく考えそうだなと思う思考回路に陥っていた。そしてこの思考が「身の丈に合わない本を読み始める」という行動を起こした。小3のときには「難しい本=分厚い本」という考えが追加され、その考えのもとハリーポッターシリーズの凄く分厚い本を図書室で借りてクラスや家で読んでいた。すると周りの人からは「そんなに分厚い本よく読めるね!凄い!」と言った声を貰える。このときの私は本の内容よりもそういった「褒めてもらえる」ということに本を読む意味を見出していた。小4のときには身の丈に合わなすぎる「アルジャーノンに花束を」を買ってもらったのを覚えている。結局難しくて途中で読むのを辞めた。こんなことにしかアイデンティティを見い出せなかった悲しき幼少期…と思うと笑えてくる。

そして中学生になると「カゲロウデイズ」「野いちご文庫」など多くの中学生が通るであろう道を通った。当時付き合っていた彼氏の影響を受けて全く興味のないゲームやアニメのノベライズ本にも手を出した。しかし、難しい本を読んだ時のあの優越感が忘れられず、今度は夏目漱石や太宰治などの日本の文豪が書いた本を読み始めた。昔の言葉が使われていたり読めない文字が多数使われていて、意味もわからず読んだせいで何も覚えていないし日本が誇る文学にあまりに自己中心的な嫌悪感を抱いた。このときの自分キモすぎる。

高校生は多分数冊しか読んでいない。本は買うけど読む時間が無くて未読の本が溜まっていく状況だった。未だに読み切れていないものがある。未読の本があるのにまた買う。今度は本でいっぱいの本棚に本を買う意味を見出した。なんだこいつ。しかも分厚い本ばかり。小学生のときに見出した本を読むことの意味をズルズル引きずっている17歳。痛すぎるし本が可哀想。

そして大学生になった現在。進学後は環境に慣れるのと新しい人間関係を維持するのに精一杯でほとんど読んでいなかった。今年こそは読もうと思い立ってから約1年が経つ。いまさっき、6年前の中学2年生のときに買った太宰治の「人間失格」を読み始めた。第2章まで読んだ。当時も読んだはずなのに、やはり適当に読んでいたのだろう、まるで初めて読むかのような感覚だった。6年前は私が人生で1番苦しい思いをした年だ。そのときから6年、酸いも甘いも経験して読める漢字も増えて、奇妙な「本を読む意味」からも解放された今の私が読む「人間失格」はどうだろう。

意味がわからない言葉を調べながら読み進めていく。まだ半分しか読んでいないのに途中で、一瞬、ほんの一瞬読むのを辞めたくなった。その一瞬とは、太宰治の書く言葉一つ一つが、絶望として突き刺さっていることに気づいた一瞬であった。目を背けたくなる絶望。知らない言葉の意味を知るとその絶望さが加速する。

読書好きを自称していたあの頃の私はとても惨めで愚かで情けない存在だった。「だった」で良いのだろうか。読書好きという役を演じていた惨めな道化師。人間失格の物語はどこか私を皮肉に笑っている気がしてならない。世界観に浸りすぎているのだろうか。

私はこの物語を最後まで読めるのだろうか。

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