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劇団四季『オペラ座の怪人』を今さら振り返る

2018年4月京都公演


 名前くらいは聞いたことがあったし、内容も知っていたし、音楽なんか有名すぎていろんなところで聴いてきた。


 それでも実際に観劇したことはなく、いつか、いつかと夢観ていたのがこの『オペラ座の怪人』である。ミュージカルに出会う前から観たかった二作品のうちのひとつだった。ちなみにもうひとつは『コーラスライン』だ。


 京都公演を観たのだが、この演目は京都に似合うなあ、と思った。京都というより、京都劇場に似合うと思った。劇場にはそれぞれの特色・空気がある。設備や構造の詳しいところはわからないが、なんとなく、京都劇場はとても落ち着いている。


 観劇後、「クリスティーヌはとんでもない女だな」と思った。あと、「美術めっちゃ金かかってんな」とも思った。


 豪華絢爛な美術、落ちてくるシャンデリア、せりあがってくる無数の蝋燭。基本的に薄暗く古めかしく荘厳な感じがした。ハンニバルのシーンの衣装がものすごく好きだ。赤をベースにした鮮やかな色合いが、異国風で華やかで、それでいてしっかり上品だった。


 それにしても本当にクリスティーヌはとんでもない女だと思った。いや、切ない。どこまでも切ない愛の話だ。それはわかる。しかしクリスティーヌ、ファントムをキープしておきながら、いくら幼馴染みとはいえ再会したばかりラウルにコロッといくのはどうなんだ。


 ファントムはクリスティーヌを女として見て、女として好きだったのだろう。対してクリスティーヌは、ファントムを歌の先生として、ともすれば父親代わりとして好きだったのか。いや、クリスティーヌにも多少の恋愛感情はあったと思う。だがクリスティーヌは少女漫画のヒロインよろしく「私は好きだけど、きっと好かれてはいない」とでも思っていたように感じた。

 そのあたりの解釈は観客にゆだねられているのだろうから思いきり妄想を楽しませてもらうが、そもそもの前提がファントムとクリスティーヌでは全く違っていたからこそ、あの惨事に至ったのだろう。


 お互いに前提が違っていることに気づけなかったからこそ、あんなことになったのだろうとも思う。クリスティーヌの思わせぶりな態度も、「もしかして私、女として好かれてる?」なんてみじんも思ってなかったからこそ、ではないか。そうであってほしい。あれがわざとであったなら、私はどうしたってクリスティーヌのことを好きにはなれない。


 ラウルはとても良い男だ、それはわかる。顔も家柄もよく、甘やかしてくれるし守ってくれる。クリスティーヌのメンタルが弱っているときは彼女が求める言葉をごく自然に与えてくれるし、理想的な「王子様」だろう。


 だからっていいのか、クリスティーヌ。ファントムにはおまえしかいないんだぞ。ラウルはおそらくどこにでも居場所を作れる男だぞ。そんな風に思ってしまうのは、私が完全にファントムに肩入れしているからだ。


 まあクリスティーヌの気持ちもわからなくもない。敬愛していた先生(おそらくちょっとは恋愛感情を抱いている)に、突然プロポーズされ、彼がずっと身に着けている仮面を取ってみたらその下の顔はひどく醜く、彼が怒るのも理解はできるが怒り方が尋常じゃないほど恐ろしい。シャンデリアを落としたり、幼馴染みを執拗に殺しにかかってきたり、脅迫文をやたらと送りつけてきたり、どんなに好きな相手でもそこまでされたら怖くて怖くて、いっそ憎くもなるだろう。


 色恋沙汰はめんどくさいなあ、と思った。ラウルはそれでもクリスティーヌが好きだったのだから不思議だ。私がラウルだったらたぶんクリスティーヌではなくその友人のメグ・ジリーを選ぶ。メグすごくかわいい。


 その後、『オペラ座の怪人』を心底愛している友人からロンドン25周年公演のDVDを借りて観たら、クリスティーヌが明らかにファントムを選んでいるのに状況がそれを許さない、というあまりにも切なすぎる演出で驚いた。聞けばキャストによって演出が若干変わるという。確かに芝居の要素も強い演目だ。そうなってもおかしくない。


 いろんなクリスティーヌ、いろんなファントムが観たいなあ、と思った。DVDの演出の方が好みではあるが、たぶんそれを生で観たらめちゃくちゃ泣くしめちゃくちゃ疲れるだろう。どうであれ、もっと何度も観て考えたい。


 色々書いたが、マダム・ジリーがかっこよくてかわいくて一番好きだと友人に話したら、なんかすごく笑われた。普段はあんなに厳しくバレエを指導しているのに、「マスカレード」でちょっとだけはしゃいでるマダム・ジリーのかわいさはすさまじい。あれを観るためだけに一万払える。



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