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第25回 君、音、朝方、etc 【私的小説】

たとえ経た事がなくとも
経験したように
笑ってもいいだろ?

 今までのことをゆっくり話す。
 その人は前を向き、聞いている。
 とても真剣で真っすぐな人だと思う。

 休日の早朝、いつもの道を歩くとその人はいた。何度目かの遭遇だった。彼は私の方を見て言った。「おはよう」と。
 
 誰にも似ていない声で、彼は話した。
「この前も会いましたよね」と言う。
 私は曖昧に頷く。彼は私の顔を見る。今日は真正面からだった。目を逸らすことができないでいた。正しいかのように、私は正面を見る。
 彼は話した。

「早朝になると思い出すことがあります。いつかのことです。朝は毎日訪れるのに、なぜかその日のことだけはっきりと思い出します。何度も僕は反復するんだと思う。それは悪いことではない、そうだよね」
「分かります」
「それで運命が変わったわけではないけど、僕にとってはいつでも特定の記憶の箱を取り出すことができる。まるでプレゼントされた大きな箱に、いくつもの瞬間が収められているかのように。分かりますか?」
 
 彼の問いは、私を困らせる。
「私はいくつものことはなくて、一つのことだったりします」
「解像度があまりにも細かいんでしょう、」
 そういう風に彼は言う。「分かりますよ」
 会話をしていること自体、不思議に思う。何も望まずともここにいた。
  
 彼に訊かれる。
「海釣りに行ったことはありますか?」
 無言で首を横に振る。
「秋味の季節です、今は。とても美味しいです」
「アキアジって何ですか?」
「鮭です。北海道ではそう呼ぶみたいですね」

 私は初耳だった。彼は教えてくれる。
「季節ものです。毎年秋になると、石狩鍋や、塩焼きやら、ちゃんちゃん焼きとか、ある時はいくらなんかが御馳走なんです。食べたことなかった?」
「今度、やってみます」と私は言う。
 その今度は、必ずやってくると私は思う。

「早朝、父に起こされて、車で遠出をしたことがありました。大人の遠足です。子どもっぽいですよね、」
 私は返答に困る。 彼は牽引するように話す。
「それでいいんです。いくつになっても人は子どもです。コンビニで朝飯とお昼を買って、目的地に向かいます。空はまだ暗闇です。星が出ていても車窓からは見えません。早朝のラジオは音楽ばかり鳴らします。その時の車内の空間が僕は好きでした、ずっと」
「素敵です」と私は言う。
「素敵なことは他にもたくさんあります、」と彼は言う。

「海の音、匂い、それを感じる僕たち。太陽が昇りゆく、そして移動することを私たちは直に感じます。普段見せない世界の表情を、私たちは胸いっぱいに感じるわけです。素敵ですよね」
 私は「はい」と言う。
「出来るだけ、素敵に話します、」と彼は笑う。

「僕は釣りが嫌いです。ただ、待つだけなんて退屈じゃないですか。でも秋味釣りは違います。僕らは波の音を聞きます。波はうごめき、一度たりとも同じ瞬間はありません。そうやって浜辺にいくつもの竿を立てて、後は、僕らは海を眺めボーっとしています。
 ある人はやがて釣れるだろう魚のことを考え、ある人は全く別のことを思い巡らせるかもしれない。何も考えない、そんな瞬間もあります。そのように僕らは守られている。僕は世界の全てをそこで感じます。
 部屋に一人きりでいたら、一生分からない世界です。僕らは自然なのだから、」
 彼は息継ぎをし、言葉を渡してくれる。

「その日は、珍しく3匹の魚が釣れました。秋味です。父は喜びました、僥倖だと。僕の父はボキャブラリーが少ない人だと思われがちだけど、本当は言葉を沢山知っているんです」
「分かります」
「分かってくれて嬉しいです」
  
 彼は言う。
「その帰り道、僕はこれからも生きよう、と思いました。重い話になってすみません」
「いえいえ」
 そんなことないです、と頭の中では言うけど、もっと適切な言葉がある気がする。
「いつも、あの光景はあります」
 それから彼は少し黙る。

 饒舌を私は意外に思う。そんなに滑らかに喋るイメージは持っていなかった。まるで大事な宝物について思い返すように、言葉を一つ一つ慈しめるように、彼は再び話す。

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