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【短編小説】 日々の後ろ (3100字)
「燃やしたカミはどこに行く」
それから長い間、沈黙があった。時計の針なんてもうどこにもないのに、あたかもどこかで、チクタクと秒針が揺れている。
髪、紙。あるいは神?
フジタさんは現実を述べているのか、哲学的な話題なのか、僕には判断できなかった。する必要もない、今日は空白の一日だ。起きる全て、どれも空白の思考。何もしないと皆で決めた。
未来を前にした束の間の猶予だった。
「昨日燃えて、灰になり風に舞っていった」
と僕は胸中で呟く。
布団もない床の向こう、それで良かった。
この朝は今しかない。
”燃やしたカミ”
それは一体どんな姿だろうか。燃えてしまえば、全て同じか。頭の中はどれも想像の風景だ。
その後、そもそもの結論が彼の口から漏れることはなかった。部屋でただ一つの呟きが漂う空気。皆は眠る、あるいはその振りをしている、全うな僕と同じく。これが大人だろう。
誰かの呟きに耳を貸さずにやり過ごす。平静を保ち、変化のきっかけに目もくれない。
柏木が豆電球がないと眠れないと言った。主張するでもない。ごく自然な同意のように、天井に小さくオレンジ色が点る。それは僕を随分、懐かしい気持ちにさせた。肌の温もりや存在の暖かさがあそこにあった。
互いを確かめた日常。永遠にも思える幼少期がまだ心を燻るなら、それは正しく永遠に近いのかもしれない。
追憶こそが記憶。
ぼんやりと考えていた。
そして今はいつなのだろう、と。
どちらにせよ朝の訪れはもうすぐだ。春先は夜が意外にも短い。まだ残る寒さのお陰で忘れそうになる変化だった。
北海道の三月に無精者は、今まで朝の訪れを待つこともなかった。
「あくまで、恵まれていた」
まるで前後の文脈を繋ぐ厳かな口調。意味が途切れそうになる。まだ、時間は続く。
当のフジタさんの狙いは分からない。誰の返答もなかった。一時、皆は死んでいた。円滑な会話の流れは夜間、休符する。生きてる間はあれだけ代わる代わる皆が話し出すのに。
たとえ目をつむっているだけでも、誰も眠るだろう。一体、誰に確かめられる?
祭りの後の空気は。
横たわる数人、狭い空間、何かの残り香。今日、日々が終わったとだけ予感した。いつか終演の時点として今日を思い出すのを皆は知っている。仮にそれなら始まりの萌芽はどこにあるか。
とうに見過ごしてしまう。
横たわり、心の中で見渡した。思い出の姿。きっと、新たな出会いがある。
僕に限って言えば展望はない。見えるのは過去の遺物で、ここから作り出す未来も適応すべき現実もなかった。真に勝ち取ったわけではない自由の身だ。自立せず、社会の一方へ寄りかかる青春を当面は謳歌するだろう。
「良かったんだと思う、」
声は切実さを打ち明ける。
「諦めかけていたが」
独白は続く、何を諦めていただろう。顔さえ見えなければ何も分からない。これで分かった気になりたくなかった。
改めて、フジタさんのことをよく知らなかった。依然、何についての言及かもはっきりしない。意図も狙いも、言葉の先に誰がいるのかも。
この時に酔っている。おそらく僕はその先にいた。解釈も、返答もなくメッセージを受け取るだけの存在になった。
この身体は微動だにしない。無論、呼吸は睡眠時の如く規則的ではない。微かな動揺、興奮、気持ちを隠し平静を保つ。理由さえ分からない。
「丸ごと人生を奪われたわけではない」
彼は問いかける。
「そうだろ」
諦めの声、希望の抑揚。
僕は表情を緩めた。壁の方に向いている。壁は笑わない。死角の筈だ、おそらく誰からも。
寝返りを打つ音が聞こえた。動き出す気配。起きていることを周囲に示した?誰が?あるいは、語りが醸し出す空気に耐えられない?
「朝が来たんだ」
変わらずフジタさんの声。
事実を事実として響かす声音だった。
薄く光が部屋に満ちるのには、まだ時間が掛かるだろう。ただ、誰かが一息に緑色のカーテンを引かない限り。あるいはそうして付随して鳴らされる物音こそ朝の合図かもしれない。
これは僕の役目ではない。状況に追随するだけだ。いつも、そうだった。
誰かが一日の始まりをセットする。交差点で旗を振る老人、味噌汁を炊き出す母の後ろ姿。静かな時間、彼らを眺めていた。
壁を見ていた。近くの、すぐそばのコンセントを見つめた。多くの配線。部屋中の電化製品の音はしない。耳を澄ませてそんな音を待つなんておかしなものだ。今、決して退屈ではない。
船出前の明け方の、最後に落ち合った、昨日の終わり。ここに位置する不思議。
フジタさん以外の誰かが話し出さないかと願っていた。誰かの声。関係性を揺さぶり、世界を開く第三者。二項対立の両者に救いの手を差し述べる勇気。誰かを願うのは珍しかった。
しかし、二度と寝返りはなかった。沈黙は世界の前提であり、外の声もまるで聞こえない。全ては休む。誰の声も、生きる音も。
しばらくいた。存在も忘れて徐々に白くなる壁を見ていた。
この数年で人を傷つけたことを思った。傷つけられた、それは意図的ではない。だけど、誰からも見えぬ場所で泣きたかった。幼少期の聖域で、感情を溢れさせた夜のように。
小さな安全地帯。だが勿論、泣けやしなかった。感受性は鈍磨し、それでいて自分自身への慰め方は心得ていた。
誰とも和解せず日々は過ぎた。
ただこの集まりが僕にとっての社会で、時間だった。
それでいい、と僕は言う。
脳内で響くよりも確かに空気を震わせる。
「それで、良かったんだ」と。
誰も眠っているだろう。
大学生活が彼らにとって何を意味して、ここで各々がどんなダンスを踊ったのか、無知な僕には分からない。理解するにはあまりにも彼らに近く、却って遠すぎる。触れも、感動も容易にしなかった。
今後この季節を君がどう振り返るだろう。どれも下らぬ余興だったと笑うだろうか。
「下らない戯言だと君は笑うかもしれない、」
と僕は言った。
「だが、俺は俺だ」
言葉を置く。
「君は君だ」
精一杯の自分自身のメッセージだった。
酩酊している気もしたし、自棄っぱちにもなった。始まりの終わりだ、または終わりの始まり、季節はどっちでもいい。
フジタさんに何とか対抗したいという気持ちも隠さなかった。自己陶酔を彼から教わった。必要以上に物事を卑下しない。
「誰も君を認めなくても」
起きた声。胸に届く。予想していない、いや、未知のメッセージは既知の声だ。隣にいた人物。まだそばにいる。
彼女の声は自分がいる場所、この現実世界がどのような所かをしっかりと掴んでいた。今朝、初めて聞く。迷いも煩悶もない。諦めもナルシズムだって勿論ない。
高く短い発音で問いかける。
過去を繰り返す暇はなかった。
「そんなに君は強い?」
と声は言う。
「君は」と僕は言う。
続きはない、なくていい。
目をつむり、耳を傾ける。
「孤独を恐れない人だった」
声を聞く。安らぎ、緊張する。
今が時だと直感する。
「誇っていい」
そう彼女は言った。
たとえ、僕相手ではなくとも。
しかし、そう認めるほど僕自身は愚かではない。
ただ人との関わりを知らなかった。
「そう見えてた?」
僕が放つ声は懇願だ。強さとは無縁の、願いを帯びた。
彼女は伝える。
「今日歩けるなら、君は強いよ」
「誰もが」と僕が付け加える。
咄嗟、全てを包括する意見は何も意味しない。
誰かがカーテンを開ける。滑車の音がする。光が満ちるというより、色彩だけが僅かに変化していく。
それでも暗く、明るい部屋。
誰かの生活、人生。
壁を見て、視線を君に移す。
中腰になり、辺りを見渡す。
誰もが僕を見る、
僕は見る。眠る人はもういない。
「分かるなら、君は強い」
両耳が声を聞いた。
僕も、彼女も誰もが笑っていた。
僕らだけが分かる表情で。
さよなら、閉塞の時代。
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