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月とすっぽんぽん

私は家の中に城を構えている。

それは風呂だ。

私は風呂城をこよなく愛している。

なぜ風呂が城なのかというと家の中で唯一、自分が自分でいられる場所だからだ。

私は家の中に自分の部屋がない。部屋は他にもあるが子供部屋と私と夫の寝室として使っていて、その寝室もいつのまにか夫に蝕まれ夫の部屋になってしまった。

部屋を追われた私は、それからキッチンの片隅に折り畳み式のパイプ椅子を常備し、ちょこんと。いや正確には、どすこいといった感じで座って料理の間やひと息つきたい時にカフェオレを飲んだりお菓子をつまんだりしていた。

しかし、どすこいとしつつも私は自分の部屋が欲しいと思っていた。部屋というか、完全に誰にも邪魔されない1人の場所が家の中に欲しかったのだ。

そんな願いが叶うこともないまま、定位置のパイプ椅子にどすこいする日々が続いた。

どんなに好きな人や家族と暮らしていたって、誰にでも1人で羽を伸ばせる場所は必要だと思う。周囲にも家族にも気にせず自分を出せる場所。

特に私は1人でいる時間がないと、母として妻としてしっかり立っていられないメンタルおぼろ豆腐野郎なので人よりその想いは強かった。

そんなどすこいデイズな中、運命の日はやってきた。

子供というものは、成長すると誰しも「お母さん、今日から1人でお風呂入るね」宣言をする生き物である。

我が子にもその日がやってきた。

それまで私にとって風呂は、毎日外で遊びまわって泥やら汗やら砂利やらをまとった子供をキレイにする作業場的存在だった。

「よっしゃ!風呂入るぞー!」の号令に集合した子供たちと服を投げ捨てるよう脱ぎバスロマンを撒きながら風呂に入場する姿は、さながら土俵入りするわんぱく相撲の子供力士とその親方のようだった。

そんな風呂の中である日は怪我した力士の手足を流し、ある日は力士に九九を教え、ある日は学校で嫌なことがあったと共に泣くこともあった。

1人で風呂に入る、その成長を親として親方として嬉しくも悲しくも感じたし、同時に1人でゆっくり風呂に浸かれる日々がやってくる思うと私は頭の中でステップを踏みながら小躍りしていた。

それからは、ほとんど毎日1人で風呂に入っている。扉を開けて、しんとした空間に入るあの瞬間はなんとも言えない。土俵入りの毎日とはまるで違う風呂生活が始まった。

自分が入りたいだけ湯舟に浸かり、風呂のフタの上にタオルを広げ雑誌や本を読む。こっそり隠れてアイスやプリンを食べる。アイスティーを飲む。

何も考えず、ボーッと換気扇を眺めたり浴槽のへりに体育座りで身体の暑さを冷ましたり、梅干しのような指になるまで居眠りしたり、思い出し笑いをしたり洗顔料をマイクに歌を歌ったり洗い場で踊ったり、仕事で嫌なことがあったり家事育児が手一杯になると頭のてっぺんまで潜って涙を湯舟の中に流したりした。

最高だ。こうして風呂は、まさに誰にも邪魔されない私の城になった。

それだけでも十分贅沢だが、その中でも1番の贅沢は月を眺めながら湯船に浸かることだ。ルーバー窓を手動のハンドルで半分ほど開けると、家を囲うフェンスの上に昇った月が顔を覗かせているのが見える。

夜空に白色に近い黄色に輝く月。特に満月の夜は見入ってしまうほど神々しい。月に限らず神々しいものを見ると、つい祈りたくなってしまうのが人間の性(多分)。

そんな夜は、湯舟から立ち上がって手を合わせて月に向かって祈っている。願い事だったり、ありがとうだったり色々だ。

しかし、想像してみてどうだろうか。大の大人が月が綺麗だからと言って風呂からすっぽんぽんで月めがけて合掌している。自分でいうのもなんだがとても不気味だ。むしろ事件に近い。

月側のご意見は定かではないが、決して整っているとは言えない中年女性の裸体を向けられて嬉しくはないだろう。

そう思いながらも私はそれをやっている。そうしたいから、そうしている。

私にとって風呂は城で、何をしても何を考えても何を言っても許される。不気味だなと思いつつも、思ったことをそのまま実行できる場所だ。

子供の頃は、所構わず自分の好きなことをしていた。親の前、兄弟の前、友達の前で泣いて笑って怒って食べて疲れたら寝ていた。感情という感情を感じたままに表していた。

しかし、大人になるにつれてそれが出来なくなった。学校へ行き会社へ行き結婚し子供を育て。子供だった自分にどんどん大人という名のTシャツを着せていくような感覚だった。

我慢するTシャツ、食べないTシャツ、怒らないTシャツ、寝ないTシャツ、泣かないTシャツ、先輩Tシャツに上司Tシャツ。

そのTシャツはどんどん枚数を重ね厚着しすぎて身動きすら取れなくなる。どこで何枚脱いだらいいかも分からなくなる。

私の城は、それを全部脱がせてくれた。Tシャツを身につけない私は、城ではまるで子供のように素直に過ごせている。

それまではTシャツを着ていることさえ気づいてなかった。生活に特段不満はないが、自分が自分でいられる場所の大切さは忙しい日々の中で忘れていたと思う。

湯舟から上がるとタオルで身体を拭き、城では子供だった私は部屋着の上に母Tシャツと妻Tシャツを着てリビングに戻る。そうしてまた何枚ものTシャツを重ねて日常を過ごし、城に戻ってくる。

今夜も月が出てるといいな。




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