仲間を見つけるために
私は人が成長する方法として、身をもって経験する(目に見える方法)とエネルギーを使う(目に見えない方法)の2つが、今や私たちに選択肢として与えられるようになった非常に恵まれた時代なのだと考えています。
「選べることが今の時代に可能になった」と言う点が、非常に重要であり、とても意味のあることなのです。
人はなぜ成長しよう、知ろうとする生物なのでしょうか。
その根底には、幸せになりたい、楽になりたいと言う願望があるからではないでしょうか。何か良いことがないと、そうは思わないのが自然の摂理というもの。
そんな中、私たちは実はとても大切な時期に、今ここにいるのです。
これを知っているのと知らないのとでは、あなたにとって、これからの約2万6千年に関わるくらい重要なことだとしたらどうでしょう?
今日はそういう壮大な節目のお話です。
いまは理解ができなくても、魂レベルで惹かれる人に見つけてもらうためにこの記事を書くことにしました。
私が思い描く、あなたと日本の未来
この話の前提に、私がなぜこの活動をしているのかという事について知っていただく必要があります。
日本を活性化するために、事業を行うという形で「社会の血液」であるお金をまわしている経営者の方のサポートがしたいからであり、それは巡り巡ってより生きやすい、居心地の良い日本にするためです。
そのための、「経済」の活性化を目指しており
そのために、まずは経済を動かす「人」の活性化が重要であり
それには、達成したい目標が定まっている方にまずは、どんどん目標を叶えていって幸せになっていただく
その幸せを日本に巡らせていきたいと考えているからです。
そして私がここでこのような発信をしているのにも理由があり、『その先があるからだ』ということをこの回ですでに申し上げましたとおりです。
歴史は繰り返している現実
20世紀に入ってから、精神世界が一般大衆に広まった流れと言うのは、アメリカを中心に発表された本を介してだったのだろうと思っています。
この時代の精神世界をイメージするキーワードとしては、ヒッピー、薬物、ラブ&ピース、ニューエイジ、オカルトなどでしょうか。
この頃の時代的な背景としてベトナム戦争が起こり、長引く戦況に若い人たちは嫌気がさしていたところに、新たな概念を取り入れようと、この世にユートピアを夢見たことが想像に難くなく、今の私たちでも共感するところです。
ただそこでいただけなかったのが、辛い世の中を生きていくにあたり、薬を使って意識を拡大しようとしたりするなど、本来であれば経験や段階を経て広げていくところの意識を安易(イージー)にやってのけようと、してしまったところだったのではないかなぁ、と考えています。
こういったイレギュラーな世界観によって、そもそも「肉体」や「物質としての肉体」の対義語であったはずのスピリチュアリティは、一括りにされてしまい、いかがわしい、物騒で非合法なイメージがついてしまったように思います。
とは言え、歴史は繰り返されているのです。
精神世界と言う言葉では表現されていないだけで、実際には、古代の哲学においても源流をさかのぼろうと思えば、その片鱗は散見され、歴史をひも解くとき、同じようなシチュエーション、迫害などとワンセットでいくつもの事例が見受けられるものです。
こうしてスピリチュアルと言う目には見えない世界は、特殊な能力のある人のモノとされたり、取り入れてみて偶然「叶えばラッキー」と言うような、若干レジャー的な「気休め」、精神的にすがるもの(心の弱い人がはまるもの)など、正しく理解されようとはしてこなかったように思います。
それが特に日本では顕著にすら思うのです。それこそ人類をかく乱させ、成長させないため、先に進めないようにするための罠でもあるのでは?
と疑いたくなるほど、理解は進まず、私たちにとって近づいてはならないものとなって現在に至るようです。
宗教とは本来、何であったのか?
私は宗教というものは、やはり、こういったことを悟るためにあったのだろうと思っています。
私が考える悟りとは、私たちが「人生を生きやすくなること」「その先があること」を教える道しるべであったにすぎず、宗教体験や神秘体験的なことを指すものではなかったのであろうと思っています。
例えば弘法大師さまもその意図で密教を日本に伝来させたのだと思っています。密教は宗教哲学などではなく、悟るための具体的なハウツー、方法論だったのではないでしょうか。
そうして、直に指導を受けることができた一番弟子の人たちまでは確率的に高い割合で弘法大師さまのマインドや教えを自分のものにできたのではないかと思われます。つまり、言われたとおりにやったら悟りが開け、解脱できたというわけです。
こう言うことをおっしゃっているのだと理解でき、悟りを実践できるようになった人の人数がこの時点で最大値だとします。
その一番弟子たちの中に、もしかしたら、「良かれと思って」こんなことをした人がいなかったとも限らないと思うのです。
「弘法大師さまがおっしゃっていたこの部分は、自分には分かりづらかった。よし、次に続く人が理解しやすくなるよう、加筆しよう(または表現を変えようなど)」
向上心もあって慈悲の心も人一倍だったことでしょう。自分が苦労した分、人のために奉仕してあげたい。
きっと、そんなことを思ったのではないでしょうか。
そうやって弘法大師さまのソウルやバイブスとも言えるエネルギーは、原形をとどめることが出来ずに広まっていった…俗な言い方をすると伝言ゲームのような感じで、どんどん『悟りハウツーから遠ざかった教え』が受け継がれていった。悟りづらくなっていくのは当然の帰結と言えます。
これはあくまでも私の想像なのですが、とは言え、タフで難しくても、そこには自分で体得しないと得られない学びは確実にあるのだと思っています。
自転車が乗れるようになった時のことを思い出してみてください。
人に言葉を尽くして教えてもらっても、コツを掴むまでは、理解ができないものです。
同様に、マインドや在り方を教わったとして、どうすれば良いのかを知っていたとしても、そこから自らが腹落ちして日常生活の中で実践できるようになるまでが「学び」と言うことであり、それをクリアした状態のことを私たちは「自己成長」と呼んでいるのだと思うのです。
そして、あなたも十分にご存じの通り、自己成長するのには時間がかかります。逆を言えば、私たちが思っている以上に『時間はない』とも言えます。
それがなぜなのかについてのお話を、つぎに深堀ってまいりましょう。
ここから先は
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?