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【ショートショート】ホテル屋サカキの命令違反「ピッチパイク」

 出張帰りにカジノに立ち寄ったのが間違いだった。
 命令に従って素直に帰社していればよかったものを、欲を出して直行便を一本見送った結果、信じがたい危機に直面することになってしまった。
 異国の地でただ狼狽するしかない坂木道夫は、逃げ惑う人の波に押し流されて、気がつけばロードウェイの端に立っていた。
 この場から逃げ出すためにも、速やかに移動手段を手に入れなければならなかったが、誰もが自分の身を守ることに精一杯で、坂木のような外国人に構う余裕のある者はいなかった。
 必死のヒッチハイクを無視する車を200台は見送っただろうか。合図する右腕を重たく感じはじめたところで、1台の電気自動車が坂木の前に停止した。
「乗ってくかい、兄ちゃん」
 乗車を促すその男は仏頂面で薄汚かったが、坂木の目には、彼が羽の生えた天使のように見えた。
 人を見かけで判断してはいけない。坂木は親切な人間に巡り会えた幸運に感謝をした。
 カジノタウンを離れる道中、車内のカーラジオからは、避難を勧告する緊急放送が流れていた。
「繰り返しお伝えします。午後九時三十分、カジノタウンに灰色五十倍生物が出現しました」
 まさにいま、その騒ぎの中心地にいる二人の男は、発信されるリアルタイムの情報に黙って耳を傾けていた。
「灰色……生物は現在……の方角へ向かっており……」
 スピーカーから流れる音声にノイズが混じりはじめる。
「現地にいる警察官からの情報によれば、……生物の近くでは、電力供給が絶たれ……」
 その情報を最後に、カーラジオは沈黙した。
「ちくしょう! これじゃあ、奴がどこに向かったか情報が入らないじゃないか」
 男がハンドルを強く叩くと、電気自動車のコントロールが乱れ、車線逸脱のアラートが車内に鳴り響いた。
「……まったく、役に立たないアラートだ。車線なんか見てないで、何倍生物とやらの接近を教えろってんだよ」
 だいぶ無理なことをいう男だ、と坂木は思った。
「それにしても、まさかあんな奴の予言が当たるとはなぁ……」
「えっ?」
 思わぬ発言に驚いた坂木が詳細を尋ねると、男はにわかには信じられない話をしはじめた。
「俺が通ってる退役軍人向けのグループセラピーで……」
 PTSDを患っているという男の話を聞き、まるでディザスタームービーの主人公のようだな、と坂木は思った。
「メンバーは都度変わるはずなんだけど、なぜだか毎回同じ男がいて、そいつがいうんだよ」
 男は声真似をするように、少し調子を変えていった。
「神の裁きが下り、大地は巨大化した生物に蹂躙されるだろう」
 それがあまりにもふざけた口調だったため、さすがの坂木も、現在の状況を棚に上げて笑うしかなかった。
「だろ? 笑うよな、普通」
 ずん。
 路面に段差があったのか、電気自動車の車体がわずかに浮いたように感じられた。
「どうすれば生き残れるんだって聞くと、そいつがいうんだよ」
 男が再び声真似をはじめる。
「唯一助かる方法があるとすれば、それは、空飛ぶ天使の車をヒッチハイクすることだ」
 坂木は笑った。それは限りなく現実逃避に近かった。
「ヒッチハイクだなんて、まるでいまのあんたみたいだよな」
 そういって男も笑う。
 ずん。
 よほど路面が悪いのか、段差による上下動が頻繁に発生している。
「ああ、そうそう。そいつがいうには、天使を呼び止める行為はピッチパイクっていうらしい」
 どうやって呼び止めるのか、と尋ねた坂木に対し、
「くねくねダンスを踊りながら賛美歌を歌うんだ」
 と男が答える。
 そのとき突然、車線逸脱のアラートが車内に鳴り響いた。
 電気自動車はまっすぐ走行しており、車線を逸脱などしていなかった。
 二人の男が、言葉もなく顔を見合わせる。
 続いて、なにかスイッチが切れるような、パチンという不快な音がして、電気自動車のモーター音が止んだ。
「ちくしょう! バッテリーが空だ」
 徐々に速度を緩める電気自動車が、ロードウェイのど真ん中で静かに停止する。
 ずどん。
 大地がひっくり返ったのかというほどの揺れに襲われたとき、二人は自分たちを取り囲む状況を完全に理解していた。
 あれが現れたのだ。
 呆然とする男を電気自動車から引きずり下ろして後方を振り返ると、暗闇のなかで、目と鼻の先に灰色五十倍生物がいた。
「もう終わりだ……」
 狂ったようにあたまを掻きむしった男は、もはや、やけくそといった具合にくねくねダンスを踊りはじめた。
 男の行動は理解できなかったが、先ほどの会話の内容を踏まえれば、彼が次に取る行動は察しがついた。
 坂木の予想は的中し、男が泣きそうな声で賛美歌を歌いはじめる。
 すると、二人の男と灰色五十倍生物とのあいだを突風が吹き抜け、目の前に見たことのない飛行物体が出現した。
 飛行物体の一角が透明になり、なかにいるドライバーがひょいと顔をのぞかせた。
 不思議な声、脳内に直接語りかけるような声が聞こえる。
「乗ってくかい、兄ちゃん」
 乗車を促すそれが、坂木には羽の生えた天使のように見えた。

(了)