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【ショートショート】ホテル屋サカキの命令違反「スモーク・ラビリンス」

 借金取りに追われ、逃げ込んだ先が河畔に立つ小さなホテルだった。
「どこでもいいんだ。一時的に身を隠せる場所はないかな?」
 助けを求める坂木道夫に対し、魚のような顔をしたフロントスタッフは意味深な笑みを浮かべた。
「では、絵本の世界などいかがでしょうか」
「絵本の世界?」
「ご安心ください。大人向けの絵本です。身を隠すには、これが最適かと」
「じゃ……じゃあ、それで」
 案内された202号室で指示どおりに炭酸水を飲んでいると、頭上からモーター音が聞こえてきて、次第に視界があやふやになっていった。
 
 気がつくと坂木は、「スモーク・ラビリンス」と書かれたゲートの前に立っていた。
 どこからともなく声が聞こえてくる。
『昔むかし、あるところに、とても不運な少年がいました』
 子供に本を読み聞かせるような、穏やかで優しい声だ。
 絵本の世界に入ったのだということを、無意識のうちに坂木は理解していた。
『少年には大切な友達がいました。彼は少年の唯一の味方であり、少年にささやかな幸せをもたらす貴重な存在でもありました』
 坂木の前に少年の姿はない。どうやら、坂木自身が少年となって物語を追体験することになるようだ。
『ところがある日、物陰から不意に現れた悪魔が友達を連れ去ってしまいました。去り際に悪魔はいいます。――友達を返してもよいが、代わりにオマエに呪いをかける』
 大切にしているものが、ある日突然、理不尽に奪われる。よくあることだ、と坂木は思う。絵本の世界も、現実の世界も、万事が無情で、そこに大差はない。
『少年は悪魔の条件を呑み、自身が呪いを背負うことと引き換えに、友達を返してもらいました』
 物語を読み上げる声を聞きながら、まるで自分の事のようだと坂木は思っていた。
 坂木は、過去に一度、ペットを誘拐されたことがある。身代金を払うために借金をし、それが現在の返済地獄へとつながっている。
『呪いによる負の連鎖は、少年を容赦なく不幸のドン底へと叩き落しました。――このままでは、いずれ不幸に殺される。追い詰められた少年は、すべてをチャラにする魔法を求めて旅をし、そしてついに、魔法を授ける煙の迷宮へとたどり着きます』
「――煙の迷宮、スモーク・ラビリンス」
 どうやら導入はここまでのようで、前進を促すかのように、坂木の目の前でゆっくりとゲートが開く。
 ゲートの先へと踏み入った坂木を待っていたのは、複雑に入り組んだ広大な水路の迷宮だった。
 水路には煙が充満しており、先へと進むには、煙を吹き飛ばして視界を確保する必要がある。用意されたボートに乗り込んだ坂木は、船首に設置された空気砲を前方の煙へと向けた。
「主砲、発射!」
 
 最終到達点で待っていたのは、巨大な葉巻を咥えた醜い半魚人だった。
 水路に充満するこの煙は、どうやら半魚人が吸う木製バット並の大きさの葉巻から生じているようだ。
「貴様もアンチ・スモーカーか?」
 開口一番に半魚人が問う。
 煙を吹き飛ばしながら現れた坂木を、嫌煙者とみなしているのだろう。
「いや、俺もヘビースモーカーだ」
 坂木がそう答えると、やにわに半魚人は相好を崩した。
「おお、同志よ! この生きづらい世界で……、このシガー排斥の世界で……、よくぞこれまで生き残っていた。なんでも願いを叶えてやろう」
「すべてをチャラにする魔法があると聞いてきたんだが」
「任せておけ」
 満面の笑みを浮かべる半魚人は、坂木の目の前で新たな葉巻を出現させると、ギロチンのようなシガーカッターでその先端をジャキンと切り落とした。
「これでシャッキンの呪いは消滅した」
「おお、同志よ!」
 坂木と半魚人が、葉巻を咥えながら固く握手を交わす。
 その後二人は、たっぷりと時間をかけて葉巻を味わった。
「じゃあな、同志。友達は大切にしろよ」
 半魚人が別れの言葉を口にすると、葉巻から立ち昇る煙が一瞬で坂木の周囲を覆い尽くした。
 意識が遠のいていくなか、ふとした疑問が坂木のあたまに浮かぶ。
 ――主人公は少年。非喫煙者のはずだが、これはいったい……。
 
「おはようございます」
 目を開けると、そこはホテルの客室だった。
 ソファに座る坂木の隣には、魚のような顔をした先刻のフロントスタッフが立っている。
「ここは……」
「202号室です。絵本の世界への現実逃避。いかがでしたか」
「まるで夢を見ているかのようだった」
「それはそうです。夢なのですから」
「夢?」
「はい」
「じゃあ、シャッキンをチャラにする魔法は?」
「意識が混濁しているようですね。目を覚ましてください」
「そんな……」
「またのご利用をお待ち申し上げております」
 魚のような顔をしたフロントスタッフが、坂木をエントランスへと導く。
「すべてをチャラにする半魚人の魔法、……ああ」
 ホテルをあとにした坂木は、ゲートを出たところで足を止め、深くため息を吐いた。
 振り返ると、表札には「ホテル・スモーク・ラビリンス」と書かれている。
 風に乗って、どこからともなく葉巻の香りが漂ってきた。

(了)