【ショートショート】ホテル屋サカキの命令違反「対策訓練」
坂木道夫がチェックインの手続きをしていると、ロビーの中心が騒がしくなった。
見ればナイフを持った男が警備員にねじ伏せられている。
その様子を横目で見ながら、「怖いですね」といって、レジストレーションカードにサインをする。
フロントスタッフは曖昧な笑みを返すだけだったが、しばらくして館内に電子音が鳴り響くと、カウンター横のディスプレイを指し示し、
「あれは、訓練です」
と説明をした。
ディスプレイには「テロ対策訓練中」と表示されている。
なんだ、それは。
告知不足を指摘すべきだが、クレーマーと思われるのは好ましくない。
喉元まで出かかった言葉を呑み込み、坂木は笑顔で鍵を受け取った。
「ありがとう」
チップ代わりのトークンをデバイスに送信すると、彼は満面の笑みを浮かべていった。
「ごゆっくりお過ごしください、坂木様」
あいにく、そんな暇はないが、とにかく。
一人目、完了。
翌日、スパのプールで汗を流していた坂木は、笛の音とともに投げ込まれた水中マネキンに驚き、慌ててプールから這い上がった。
「火災が発生しました! いますぐ館外へ避難してください」
大声で叫ぶスパスタッフの指示に従い、坂木は半裸のままホテルの外へと脱出する。
足裏にへばりつく小石を払い落としていると、聞き覚えのある電子音が鳴り響いた。
「ご協力ありがとうございました」
スパスタッフが掲げる携帯ディスプレイには、「火災対策訓練中」と表示されていた。
なんだ、それは。
連日の告知不足に憤りを感じたが、自身の任務を思い出し、坂木は平静を装う。
バスタオルを差し出すスパスタッフに、チップ代わりのトークンを送信した。
十七人目、完了。
順調だ。
この調子で進めば、本部から与えられた任務は、明日には達成されることだろう。
彼らがチップだと思っているこのトークンには、不可逆的な仕掛けが施されている。
一斉に作動させれば、怠慢が目に余るこのホテルを崩壊させることも可能だ。
本部がそれをどのように使うのかは不明だが、ホテルが崩壊していく様を想像すれば、溜飲が下がるというものだった。
十八時間後、トークンをすべて配布し終えた坂木は、任務完了のメッセージを本部に送ると、荷物をまとめてチェックアウトの準備をした。
もはやこのホテルに用はない。
内線電話でバゲージダウンを依頼すると、ベルスタッフの女性がカートを押してやってきた。
「ああ、どうも。昨日はありがとう。おかげで、いいお土産が買えました」
トークンの口実に近くの菓子店を尋ねた相手だったが、昨日のやりとりを覚えていないのか、そのベルスタッフは、坂木の言葉にはまったくの無反応だった。それどころか、蔑むような視線を坂木へと向けている。
昨日トークンを送ったときには、「駅前でスイーツを買って帰ります」と喜んでいたのだが、今日の彼女はどこか様子がおかしい。
荷物の礼にと、今度はトークンではなく現金のチップを渡したが、それでも彼女の不遜な態度は変わらず、エレベーター内は居心地の悪い空間のままだった。
どこか釈然としないものを感じていた坂木は、ベルキャプテンにも声をかけてみることにした。
「お世話になりました。チェックアウトするので、タクシーをお願いできますか?」
するとベルキャプテンは、無言のまま顎で正面玄関を指し示した。
勝手に乗れ、という意味なのだろうか。
ここまで来ると明らかにおかしい。
そこで坂木は、とある可能性に思い至った。
ばれたのか。
仕掛けを施したトークンをばら撒いたこと。
ホテルを崩壊させようとしていること。
すべてがばれてしまったのか。
ダメ押しはフロントスタッフだった。
キャッシュトレーを目の前に放り投げられた瞬間に確信した。
間違いない。ばれている。
完璧に振る舞っていたはずの自分の、いったいどこに落ち度があったのだろう。
虫けらを見るような、見下した侮蔑の視線が坂木に向けられている。
これ以上は耐えられなかった。
自白は命令違反だったが、坂木は懺悔せずにはいられなかった。
すべての罪を告白し、最後に坂木は尋ねる。
「どのような対策をすれば、こんなにも高度なセキュリティを構築できるのでしょうか」
そのとき、聞き慣れた電子音が館内に響き渡った。
「訓練です」
ようやく口を開いたフロントスタッフが、ディスプレイを指していった。
「無視する訓練ですよ」
ディスプレイには「クレーマー対策訓練中」と表示されていた。
(了)