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【ショートショート】ホテル屋サカキの命令違反「三代目マーブルポリッシャー」

 深夜のホテル。人の気配が消え失せたロビーで黙々と作業を続ける男がいる。
 驚かさないように正面へと回ると、坂木道夫は男に声をかけた。
「お疲れさまです。こんな時間に大変ですね。なにをされているのですか」
 這いつくばるように床を撫でる男は、手を止めずに坂木の質問に答えた。
「研磨です」
 遠くからは拭いているように見えたが、実際は大理石の床を磨いているのだという。
「私もホテル関連の仕事をしているのですが、少しだけ話を聞かせていただけないでしょうか」
 良いとも悪いとも答えず、男は刃物でも研ぐように大理石の床を磨き続けていた。
「この仕事を続けて長いのでしょうか」
 自身の経験を尋ねたつもりだったが、男からは少しずれた内容の答えが返ってきた。
「祖父の代から数えて、私で三代目になります」
 職人だったのか、と坂木は驚く。
「大理石の研磨がそこまで専門的なものだとは思いませんでした。技術の継承が求められる繊細な作業なのですね」
 坂木の言葉に、男は首を左右に振る。
「いえ、そうではありません……」
 男が次の言葉を発するまで、なにやら意味ありげな間が空いたように感じられた。
「耐性がないと、この仕事を続けられないのですよ」
「耐性……ですか?」
 どういうことなのか尋ねると、男は床を磨く手を止めた。
「――マーブル模様。その美しさに惹かれるのは、なにも人間に限ったことではありません」
 それから男は、大理石研磨という仕事の秘密を語りはじめた。
 磨く際に大理石の表面から発生する微弱な音波。人間の耳では聞き取ることのできない周波数のその音波は、あてもなく徘徊する亡霊を引き寄せるのだという。
 大理石研磨とは、回転するレコード盤に針を落とすような仕事なのだと男はいった。
「信じられませんか? それでも構いませんが。ちょうど、ほら……、あなたの後ろにも」
 男にいわれ、はっとして後ろを振り返る坂木。しかし、そこには誰もいない。
「はは……。嫌だな、冗談いわないでくださいよ」
 ぎこちない笑いとともに坂木が前を向くと、おびただしい数の亡霊が男に群がっていた。
 泡を吹いて倒れた坂木を一瞥し、男はいう。
「耐性なし」
 床に這いつくばり、男は研磨を再開した。

(了)