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【ショートショート】ホテル屋サカキの命令違反「ハイバネーション」

「当ホテルでは、クラブフロアの客室にハイバネーションを採用しております」
 チェックインを担当したフロントスタッフは、坂木道夫に部屋のアップグレードを提案した。
「いかがされますか」
「普通の部屋とは、なにが違うのでしょうか」
 坂木の質問にフロントスタッフが答える。
「客室内のすべてが、部屋を出る直前の状態で一時保存されます」
 ハイバネーションとは、本来、冬眠を指す言葉だったが、現代においてはコンピューターの一時休止処理にもその単語が用いられている。
「とても快適ですよ」
 フロントスタッフの説明を聞いた坂木は、せいぜいバスタブに張った湯を追い焚きする程度のものだろうと考えたが、実際の機能は想像を遥かに超えるものだった。
 完全保存。食べかけの食事であれば、温度を保つどころか鮮度まで落とさずに現状保存されるのだという。
「お願いします」
 ビジネスマンを装って一週間滞在するのだから、部屋は快適であるに越したことはない。
 それに加えて、会社の経費に上限はないのだから、坂木にその提案を断る理由はなかった。
 一般客として潜入し、ホテルの実態調査を行う。
 坂木は覆面調査員だった。
 それからの数日、坂木は真面目に働いてホテル内を調査した。
 仕事柄、本部から急な呼び出しを受けることも多く、着の身着のまま部屋を飛び出すこともあったが、いずれの場合も、部屋は外出前の状態を完全に維持していた。
 シャンパンクーラーの氷が解けていないのは想定の範囲内だったが、吸いかけの葉巻の火が消えていないことにはさすがの坂木も驚いた。
 どのような理論なのかまったく不明だったが、現代社会においては、無知のまま恩恵に預かるのは恥ずかしいことではなく、そのうち坂木も細かいことは気にならなくなった。
 滞在五日目の夜、坂木がバーで飲んでいると、疲れた顔の女性が隣の席に座った。
「なにも聞かないで一杯だけ奢らせて」
 女性に声をかけられることは多かったが、これだけあからさまな誘いは珍しい。
 グラスを傾けながら時間を過ごしたあとは、求められるまま女性を自分の部屋へと誘った。
 覆面調査中に女性を部屋に連れ込むのは命令違反だったが、坂木はその程度のことを気にするような男ではなかった。
「いますぐ現場へ向かえ」
 寝息を立てる女性の横で緊急の呼び出しを受けたとき、坂木はあまりのタイミングの悪さに舌打ちをしそうになった、
 良いこともあれば悪いこともある。
 緊急の呼び出しは、数時間前の幸運の対価だと思うことにした。
「よくやった、ご苦労」
 丸一日かけて仕事をやり遂げた坂木には、上司の声を忘れるための酒が必要だった。
 昨晩と同じ席でウイスキーを飲んでいると、隣から声をかけられた。
「なにも聞かないで一杯だけ奢らせて」
 二夜連続とはなんと幸運なのだろう。
 しかも、今夜の女性は、昨夜の女性よりも数段魅力的だ。
 必要な手順をすっ飛ばし、坂木は女性を自室へと導く。
 鍵を開けて部屋に入った瞬間、嫌な感じがした。
 むっとした人間の気配。
 冬眠から覚めた昨夜の女が、ベッドの上でむくりと起き上がった。

(了)