【ショートショート】ホテル屋サカキの命令違反「メイド略奪」
「メイドのイエリです」
坂木道夫のなかで、眠っていた向日葵が一瞬のうちに開花した。一目惚れだった。
晩餐会で出会ったイエリは、知的で笑顔が眩しく、清楚なのに少し傲慢で、それでいて外見がストライクだった。
――この出会いは運命に違いない。
イエリの雇用主を前にして、坂木は一歩も引かない覚悟を決めた。
「メイドさんを私にください」
口から出た言葉は明らかに説明不足で、まるで、結婚を決意した男が、相手の親に認めてもらおうと足掻いているかのようだった。
「そんなさぁ……お嬢さんをください、みたいにいわれても」
「絶対に幸せにします」
「いや、そういう問題じゃなくて」
「べつにいいじゃない。あなただって略奪愛だったんだから」
遊び心のある夫人の後押しもあって、トライアルとして一週間、イエリは坂木のもとでメイドとして働くことになった。
「かしこまりました。では、お返事は最終日に」
ヘッドハンティングに応じるかどうかは、最後にイエリ自身が決断をくだすのだという。
その夜、坂木は、理想の女性を従属させられるという低俗極まりない興奮から、ベッドに横になったまま一睡もすることができなかった。
ところが、そんな期待はすぐに打ち砕かれることになる。
翌日になって出勤したイエリは、スウェットパンツにパーカーという出で立ちをしていたのだ。
それはそれで魅力的ではあるのだが、一晩中妄想し続けたメイドの姿とはあまりにもかけ離れている。
「イエリちゃん、メイドはメイド服を着ないと」
坂木がそう発言した瞬間に、イエリは主人の足を強く踏みつけた。
「そのイエリちゃんというの、やめてください。禁止します」
「イエリ――さん。あの、メイド服は」
それに対するイエリの反論は、社会人として至極まっとうなものだった。
――ユニフォームに指定がある場合、それらは勤務先から貸与されなければならない。
とまあ、このような経緯で、二人はメイド服を買うために街ヘと繰り出すことになった。
古今東西ありとあらゆる服を取り揃えていると噂の『崎山文鳥洋服店』。閑古鳥が鳴く老舗洋服店の専門職コーナーでメイド服を選んでいると、不意に背後から名前を呼ばれた。
振り返ると、店主の崎山が物陰から手招きをしている。
「じつは上物が入荷しておりまして」
七つ星女優マリーナ・ウンカックが映画撮影で実際に着用していたメイド服があるのだという。
そのようなものが服屋にあるのかと驚き、値段を聞いて二度驚く。
「それ、試着させてください」
いつの間にか、隣には頬を赤く染めたイエリが立っていた。
希少なメイド服は思わぬ出費だったが、それを着たイエリは、まるでスクリーンから抜け出した七つ星の女神のようだった。
「ご主人様、飲み過ぎですよ。吐くなら、私が帰宅してからにしてください」
映画のセリフを真似る彼女を見ながら、グラスに入ったヴィンテージウィスキーを傾ける。それは坂木にとって至福の時間だった。
その後の坂木は、イエリの求めるままに行動して毎日を過ごした。
サラダを食べましょうといわれればサラダを食べ、サウナでトランプをしましょうといわれれば一緒にサウナに入ってトランプをした。
有給休暇をイエリと過ごす。そんな坂木の濃厚な一週間はあっという間に過ぎていった。
気がつけば世間はもうクリスマス一色。なにか欲しいものはないかと聞くと、イエリは「子供がほしい」と答えた。
――おっ、おっ、おっ? そういうことなのか?
すぐさまメイド服を脱がせようとすると、「あなたの子じゃない」と絶叫され、全力の平手打ちを食らった。
どうやら子供というのは業界内の隠語のようで、昇進すると託される『王立メイド協会』の下位所属員、つまりメイドの見習いのことだった。
「ご主人様にも子供、いますよね」
一般企業における部下がそれにあたると聞いて、坂木は心底落胆した。
「じゃあさ、王立メイド協会では、どうすれば子供を持てるの?」
昇進に必要な条件を尋ねると、イエリからは、関係者以外には明かせないが、非常に尊いものなのだという答えが返ってきた。
格式高い王立メイド協会のことだ、雇用主からの報酬の額で序列が決まるなどという低俗な考えはないのだろう。
どうすればイエリは喜んでくれるのか。坂木は寝ずに一晩考え続けたが、それでもよいアイディアは思い浮かばなかった。
そうして迎えた最終日の夜、いよいよイエリの返答を聞くときがやってきた。
これまでの一週間、坂木はイエリからのあらゆる求めに正面から向き合ってきた。
ヘッドハンティングに応じれば、末永く幸せな人生を送ることができるに違いない。彼女はそう考えるはずだと、坂木は信じて疑わなかった。
「では最後に、今日までの仕事ぶりを踏まえて月額給与を提示していただきます」
笑顔でいうイエリに雇用契約書を差し出す。
――金で動く女ではない。
イエリは掴みどころのない女性だが、それだけは断言することができた。
むしろ、金で釣ろうとすることで相手の自尊心を傷つけてしまうかもしれない、とさえ思っていた。だが――。
雇用契約書に目を通したイエリは一言、
「あ、無理です。ごめんなさい」
といった。
目の前が真っ暗になった。
有給と大金をドブに捨て、坂木のなかで世界が崩壊した瞬間だった。
「う、う……」
深くため息をついたイエリは、嗚咽する坂木に歩み寄り、その耳元でそっと囁く。
「子供が欲しい、っていいましたよね。大人なんだから察してくださいよ」
――金だ。金だったのだ。
「まさか、そんな」
王立メイド協会のような気取った組織が、そんな下衆な基準で序列を決定しているなどとは思いもしなかった。
ホテル屋ごときの稼ぎでは、メイドを雇うことも、イエリに子供を授けることもできない。
なんということだ。
世界は不条理に満ちている。
と、そこまで考えたところで疑問が湧いた。
「ちょっと待って。そもそも、どうして子供が欲しいの?」
坂木の質問にイエリは答える。
「妹が人質に取られているんです」
昇進して派閥争いに勝利しなければ、人質に取られた妹は戻ってこないのだという。
「え……」
「五割増しで支援してくれるなら、週一でバイトってことでもいいですよ。ご主人様」
甘えた口調でいうイエリは、もはや確信犯にしか見えなかったのだが、それでも、いまの坂木にとっては、なにものにも代えがたい救いの一言だった。
――たとえすべてが嘘であっても、彼女になら騙されても構わない。
メイド略奪。こうしてまた一人、メイドの下僕が世に誕生する。
(了)