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【ショートショート】ホテル屋サカキの命令違反「国立深海図書館」

 ドッキングを終えてハッチを開けると、なんともいえない甘い香りが潜水艇の内部へと流れ込んできた。
 何年ものあいだ中年男性が一人で生活している空間とは思えない匂いだった。
 生活臭の対極にあるような、清涼感のある香り。
 それが、坂木道夫が感じた一つ目の違和感だった。
 潜水艇から館内へと入ると、そこにある広い空間は、壁を隔てた向こう側の世界を忠実に再現していた。
 先ほどまで坂木が、潜水艇のカメラ越しに見ていたものと同じ光景。太陽光すら届かない深い海の底。虚無を思わせる漆黒の闇がそこにはある。時折見える小さな光点は、このあたりの深度に生息する深海生物の発する光だった。
 国立深海図書館。水深三千メートルの海底に作られたこの構造物は、水圧に耐えるため球形に作られており、窓と呼べるものは存在しない。
 目の前にあるこの光景も、ガラス越しに見る外部の様子ではなく、映し出された映像に過ぎなかった。
 しばらくのあいだ映像を眺めていると、甘い香りが強くなり、背後から声をかけられた。
「まるで宇宙のようでしょう?」
 声がするのと同時に館内に明かりが灯り、周囲の深海が無機質な壁へと変化する。
 振り返った坂木の前には、色の薄い男が一人、笑顔を見せてそこに立っていた。
「お久しぶりです」
 地上の様式で握手を求めた坂木に対し、男は戸惑いの表情を浮かべながらも、ぎこちない動作でその手を握り返してきた。
「運動不足ですか? 握力が弱くなっているようですが」
 そう告げる坂木に、男は「まあ、そんなところです」と答え、ストレッチのような動作をしてみせる。そのとき、関節の一つがありえない方向に曲がるのを坂木は見逃さなかった。
「誰かがここに来るなんて二年ぶりですよ、坂木さん」
「気軽に来れる場所じゃないですからね。許可が出るまで、私もだいぶ苦労しました」
 ここでの生活に必要な物資は、無人の潜水艇によって運び込まれる。男がいうとおり、記録の上では、人間がこの場所にやってくるのは二年ぶりのことだった。
「それで、ご要件は?」男が尋ねる。
「友人に会いに来た。といいたいところですが、本当の目的は別にあります。詳しくはあとで説明しますが、まずはいくつか質問をさせてください」
「質問? なんだかまるで、私のほうが訪問者のようですね。立場が逆になったような気分だ」
「不快にさせたのなら謝ります。ですが、これは単なる手続きです。定期的に行われる検診のようなものですよ。あなたが海底にいるあいだに、地上の社会もだいぶ変わってしまった。面倒な手続きばかりが増え、いまではもう、缶コーヒーですら生体認証がないと買えない」
 坂木が笑うと、少し遅れて男も笑いだした。
 相手の様子を見て笑いどころを見極めているかのような振る舞いだった。
「では質問をします」
 坂木が真顔でいうと、すぐに男の表情にも緊張が走った。
「国立深海図書館は紙の本を一冊も所蔵していない。正しいですか?」
「はい。ここにはデータしかありません」と男が答える。
 男の答えは正しい。
 深い海の底に作られたこの書庫は、貴重な文化遺産を外敵から守ることを目的としており、保管されている書物はすべてデータ化されたものとなっている。
「次の質問です」
 それから坂木は、国立深海図書館の基本情報と、勤務する司書の基本的な業務についていくつかの質問を行ったが、男はすべてに対して的確な返答を返した。
「ありがとうございます。質問は以上です」
 地上スタッフとの定期通信でも、不自然な兆候は見られないと聞いている。ここまでは想定の範囲内だった。
「ところで……、汚物の処理はどうしているのですか」
「オブツ?」
 男は少し考える素振りを見せてから、
「ああ、汚物ね。それなら、焼却しました」
 と答えた。
 まるで、たったいま図書館の書物データから知識を取得したかのような回答だった。
「ここは海底だぞ」と坂木はつぶやく。
 海の底にあるこの施設では、人間から排出される汚物も気軽には処分することができない。
 生活物資を輸送する無人潜水艇に積み込み、地上へと引き上げなければならなかったが、ここ半年のあいだ、無人潜水艇は積み荷が空の状態で帰還していた。
 異変に気づいた文部科学省は、オーセンティックホテルズに調査を依頼。男の友人でもある坂木が調査を担当することになった。
 通常業務とはかけ離れた仕事ではあったが、この時代、ホテル屋は幅広く事業を展開しており、今回のような依頼も特に珍しいものではなかった。
 それからの数週間に渡る調査によって、坂木はつらいニュースに直面することになる。
 半年前の補給物資のなかに、予算縮小を訴える過激派が仕込んだ他惑星由来の変異ウイルスが仕込まれていたことが判明した。
 ウイルスは人間を化け物へと変容させる科学兵器でもあった。
 こいつはもう、人間じゃない。
 任務の内容はあくまでも偵察。絶対に手を出すなと命令を受けているが、違反することに躊躇いはなかった。
 引導を渡すのも友人としての優しさ。
 坂木はアステロイド級奥義「臨終」の構えを取り、深く深呼吸をする。
「一撃であの世へ送ってやる」

(了)