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【ショートショート】ホテル屋サカキの命令違反「フレデリカ・サウザンド・キルスイッチ」

 廃墟となったこの邸宅には、もはや訪れる者など誰一人としていない。
 全盛期の絢爛豪華な姿を想像しながら、坂木道夫は静まり返ったダイニングへと足を踏み入れた。
 以前のこの建物は、主人とフレデリカの住まいであると同時に、客人をもてなすホテルでもあったのだという。
 せっかくの庭を独り占めするのはもったいない。そう語る主人に対して、客人を受け入れるよう提案したのはフレデリカだった。
 それから半世紀に渡り、1000の仕掛けが施されたこの邸宅を、世界各国から多くの人々が訪れることになった。
 白く埃を被った現在のダイニングには、もはや当時の面影は見られない。
 坂木は壁面にあるマントルピースの前まで歩いていくと、そこに飾られた一枚の人物画を見上げた。
 いまも昔も変わらない、美しいフレデリカの姿がそこにあった。

「やり残したことがあります」
 要望を坂木に伝える際、ベッドの上の依頼者は、窓の外に視線を向け、遠く彼方を見つめていた。身体は思いどおりには動かず、衰えた身では、あの地へ帰るどころか、ベッドから起き上がることもかなわない。
 邸宅で過ごした時間を懐かしむように、彼女は言葉を選びながら、ゆっくりと坂木に思い出を語った。
 依頼があったことを本部に報告すると、絶対に引き受けてはならないという命令が坂木に下った。内容からしても断るのが妥当で、本部の命令には従うべきだったが、坂木はそれを拒んで依頼を引き受けることにした。
 自分のような人間こそ、この依頼を受けるのに相応しいと思えたからだった。

 人物画のフレームに手を伸ばした坂木は、最後の仕掛けを前にして動きを止めた。
 フレデリカを役目から解放するためのキルスイッチ。トリガーをロックする1000個の仕掛けのうち、すでに999個が作動を完了し、安全装置が解除されようとしている。
「最後の1つを作動させてほしい」
 それが、坂木に託された、彼女の願いだった。
 大昔に起こった悲劇の名残りによって、フレデリカのような従者には、いまもキルスイッチの設置が厳格に定められている。
 この安全装置を考えたフレデリカの主人は、なにを思って過剰ともいえる1000個もの仕掛けを用意したのだろうか。
 深く息を吐いた坂木は、いたわるようにフレームの端に手をかける。そして。
 フレデリカの絵を壁から外し、最後の仕掛けを作動させた。
 胸に絵を抱く坂木が祈りを捧げるあいだ、ダイニングはしばしの静寂に包まれた。
 それから坂木は、絵を依頼者のもとへと持ち帰るための準備を始めた。
 持ち帰ることまでは依頼には含まれていないが、この場に置いて去るのはなにかが違う気がしたからだ。
 持参した布で大事に絵を包んでいると、ふとした拍子に裏面に書かれたメッセージの存在に気がついた。
「フレデリカに自由を」
 主人が書いたと思われるその文字には、フレデリカを失いたくない気持ちと、彼女の解放を願う気持ちの、二つの矛盾する想いが籠められているかのようだった。
 庭を抜けて門へと向かう坂木は、枯れた木の前で足を止め、邸宅を振り返る。
 最後の引き金は、彼女たちには重すぎた。
 キルスイッチが押されたいま、生命維持装置が停止した主人の傍らでは、役目を終えたフレデリカが永い眠りにつこうとしている。
 彼女は、彼女たちは、それぞれが終焉を予感し、同じ内容を別々に坂木に依頼していた。
 自身の命が尽きるのを察した主人は、長い年月のあいだ自分に尽くしてきたフレデリカを解放するため。
 機能低下により歩行も不可能となったフレデリカは、主人とともにこの世に別れを告げるため。
 互いのことだけを考え続けた彼女たちは、まもなくもう一つの世界で再開を果たすことになるだろう。

(了)