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【ショートショート】ホテル屋サカキの命令違反「残務整理_難易度A」

 最後まで残っていたホテルの従業員を脱出させる。安全地帯から指示を出す上層部が想像するほど、それは簡単なことではない。
 坂木道夫が現地に到着したとき、ホテルは原型を留めないほどに破壊しつくされていた。
 抵抗する人間は一人もいない、という意味なのだろう。国旗を掲げるためのポールには、白旗の代わりにシーツが括りつけられている。
 ロビーの中央。かろうじて残っているオブジェの後ろに人影を認め、坂木は「あの……」と声をかけた。
 敵意がないことを主張しながら正面に回り込んだ坂木は、相手の姿を見て絶句した。
 死んでいた。制服を着たベルスタッフが、長い棒のようなものに全身を貫かれて、立ったまま絶命していた。
「残務整理なんて、生身の人間には務まりませんよ」
 声がしたほうを振り返ると、積まれたソファの横に男が一人立っていた。顔はガスマスクで覆われており、素顔を確認することはできない。身体の一部を機械化しているようで、千切れた制服の袖から半分焦げた金属製の腕がのぞいていた。
「あなたが最後の一人ですか」
 坂木の問いに、残務整理の男は短く頷いて答えた。
「脱出のサポートをします。一緒に逃げましょう」
 男は何ごとか呟いたが、時を同じくして飛来した榴弾が近くの建物に直撃したため、坂木はその言葉を聞き取ることができなかった。
「とにかく、早く逃げましょう」
 男の腕を強引に掴み、ホテルを出て走りだす。
 入境時に使用した航空機は、坂木を降ろすとすぐに、最終便の乗客を乗せて飛び立ってしまった。出境には船を使うしかない。市街地を抜けると、20マイル先に客船ターミナルがあり、明日の朝に三十分だけ貨物船が停泊することになっていた。
 坂木と男は、夜の闇に紛れて客船ターミナルを目指した。途中で何度も危機的状況に陥ったが、その度ごとに、男の神がかり的な指示によって、ピンチを切り抜けることができた。なにが起こるのか、あらかじめ知っているかのような冷静さを見せる残務整理の男。脱出のサポートに来たはずが、助けられているのは自分のほうなのではないか、という感覚に陥った。
 客船ターミナルに到着すると、貨物船はすでに出航準備を始めていた。間に合わなければ置いていくという取り決めだっただけに、ギリギリで間に合ったというこの状況にも、不思議な強運を感じずにはいられない。
 ――ここまでくれば、もう大丈夫。
 ところが、いざ船に乗り込もうという段になって、後ろを歩く男の足音が途切れる。振り返ると、タラップの途中で残務整理の男が立ち止まっていた。
「私はここまでです」
 言葉の意味がわからなかった。
「私は、上司の命令とは別に、特別な残務整理を与えられています。だから、この土地を離れることはできない。坂木さん、あなたとはここでお別れです」
「なにをいってるんだ。あなたはもう、じゅうぶんに仕事をした。最後まであのホテルに残って、ゲストを、同僚を無事に脱出させ、そして……」
 機密データの消去と自社サーバーの物理的な破壊。男に与えられた残務整理は、安全地帯にいる上層部がコーヒーを飲みながら決断したものだった。
 ――命の安全と引き換えに遂行するような業務ではない。
 その思いは、坂木を突き動かす原動力となってた。
「これ以上、どんな残務があるというのですか。さあ、早く」
 坂木が手を伸ばしても、男は首を左右に振るばかり。
 やがて男は、この土地に留まる理由について語りはじめた。
「86年後の未来で、死後の世界にリエゾンペイル彼岸望遠鏡が建造されます。時間の流れが歪な死後の世界を経由して、現実世界の過去の出来事を観測するための思念望遠鏡です。そして、その望遠鏡で、この時代の、この土地の惨劇を観測するためには、位置を特定するための座標が必要になります。死後の世界を経由して観測を行う場合、人間のDNAが座標となります。さまざまな時代、さまざまな土地で、座標となる人間が選ばれました。私もその一人。なので、この土地を離れるわけにはいきません」
 話を聞いても、やはり坂木には言葉の意味がわからなかった。
「そんなの嘘だ! 脱出する気がないなら、ここまで来るはずがない」
「あなたを無事に船に乗せるためですよ、坂木さん。なぜなら、あなたは……」
 貨物船の甲板から、急げと叫ぶ声が聞こえてくる。
「とにかく、来てくれてありがとう。だいぶ先になるでしょうが、坂木さん。あちらの世界でまた会いましょう」
 男が別れを告げたとき、天空より飛来した流星の残像が坂木を貫いた。
 その一瞬に、坂木の脳裏に強烈なイメージが焼きつけられる。
 ガスマスクをつけたスーツの男が、グリーンのストライプの壁に寄りかかっている光景だ。
「待ち合わせ場所のイメージです」
 男はそういってガスマスクを外した。
 初めて目にした男の顔には、後悔など微塵もない満面の笑みが浮かんでいた。
 不思議と、それ以上引き留める気にはなれなかった。
 残務があるので、私はこれで。
 そういい残して、男はタラップを降りていった。

(了)