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【ショートショート】ホテル屋サカキの命令違反「ムーンライト・シューシャイン」

 この国に一人しかいないという靴磨き職人を探し当てるまでには三週間もの時間を要した。
 長い旅路の果てにホテルへと辿り着いたとき、その老人は、鶏が放し飼いにされている中庭で、見たことのない弦楽器を奏でていた。
「こんにちは」
 坂木道夫が話しかけると、老人は手を止め「待っていましたよ」と共通語で答えた。
「靴を、磨いてもらえますか」
 坂木の問いに短く頷くと、老人は楽器を置きゆっくりと椅子から立ち上がる。
「どうぞ、おかけください」
 老人が座っていた椅子は驚くほど豪華で、はじめのうち坂木は座るのを躊躇していたが、背後から迫る鶏に追いやられるようにして、ようやくそこに腰を下ろした。
 照りつける太陽の下、坂木の前に跪いた老人は緩やかな動きで作業を開始した。
 靴に付着した砂粒をブラシで取り除き、クリーナーで汚れを落とす。瓶に入ったクリームを靴の表面に塗ると、そこで老人は手を止めた。
「続きはあとで」
 意味がわからず目を丸くする坂木に対し、夜にまた来るようにと告げて、老人は去っていった。
 
 夜になり、坂木が再び中庭を訪れると、老人は椅子の上で瞼を閉じ、静かに歌を口ずさんでいた。
 月明かりに照らされるその姿は、畏敬の念すら感じさせるほどに神秘的なものだった。
 老人のもとへと歩み寄った坂木は、昼とは反対に、今度は自分が老人の前で跪き、靴を履いた足を自ら前へと差し出していた。
 なぜそのような行動を取ったのか、自分のことであるにもかかわらず、坂木には理由がわからなかった。
「私のクリームは、月光を浴びて輝きを増す」
 言葉を発した老人が靴の表面を素手で撫でると、月の光を反射して足元が輝きはじめた。
 そのとき坂木は、多幸感に包まれながら、現在に至るまでのこの国の歴史を追体験していた。
 遥か昔に飛来した顔のない生命体がもたらした数々の奇跡。あるものは永く語り継がれ、またあるものは時の彼方に忘れ去られてしまったが、どれもこの国の住民たちに強い信念を抱かせた。
 ――神に対する信仰心。
 
 手帳を取り出した坂木は、タイトルだけが記載されたページに視線を落とす。
『神格化された靴磨き・最後の継承者』
 このようなものを公開してはならない。
 深く息を吸い込んだ坂木は、躊躇うことなくそのページを破り捨てた。
 中庭を吹き抜ける風が、坂木を別の世界へといざなうように渦巻いている。

(了)