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「合掌」するとはこういうことか。

僕は特定の宗教を信仰しておりません。しかし、やはり神社やお寺は僕らの生活に深く根ざしており、お彼岸のお墓参りや、法要などでご先祖様やお亡くなりになった方と向き合えば自然と「合掌」しますよね?

では、合掌するとはどんなことなのか、少し考えてみようかな。お坊さんのご挨拶では必ず「合掌」されており、なにか意味があるのではなかいかと。

では「合掌」について、書いてみますかね。

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仏教発祥の地「インド」では「右手は清浄」「左手は不浄」とされ、そこから、

「右手は仏様が住む極楽浄土」
「左手は我々が住む衆生(現世)」

を表すとされていたそうです。

よって右手と左手を合わせることで「仏様と一体となる」ことを身体で示すものであり、そして「仏様の力」で自分の身を清めるとの意味があるのだそうです。

なるほど、なるほど。「仏様=ご先祖様」を敬う気持ちには、自分の身も清らかにしてますよとの意味があるんですね。僕は「命に対する畏敬の念」もあると思っています。

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この話を思いついたのは、子どもの頃、初詣に関東地方でも有名な「お大師様」へ行ったときのことを思い出したのです。僕の両親は初詣のついでに毎年「お護摩」を頂いてました。そのお護摩を神棚に祀って「家内安全」「無病息災」を祈念していたんでしょうね。

ある年のこと、そのお大師様でお護摩の出来上がりをお堂で待っていると、お坊さんの「説法」がありました。

以下はその要約です。

日々の暮らしの中で特に「命」を感じるのは「食事」のとき。食事は命を繋ぐことです。目の前のお膳は、お米や野菜の作物を育ててくれた人たちがいて、調理してくれる人がいるからこそ頂ける。また人間は動植物の命をいただかなければ「ひと月」と生きてはいかれないのです。なので、そんな命に感謝するためにも「いただきます」「ごちそうさまでした」のときだけは、合掌されてはいかがでしょう?命の響きが感じられますよ。

たしかこんな内容だったと。そのお坊さんは朗らかで優しい表情だったのは覚えています。50を過ぎ段々と残り時間が少なくなってきたせいか、ときどき子どもの時のことを思い出すんですよね。

その後、特に若いころは、お酒もたくさん飲んでたし、こんなありがたい「お話」を忘れ、よろしくない態度で食事に臨んでおりました。まさに汗顔の至りです。

その反省も込めて、これから食事の始まりと終わりは「合掌」して「いただきます」「ごちそうさまでした」と唱えますね。

皆さんもどうですか?やってみませんか?「合掌」してから食事をいただく。食べ終わったらまた「合掌」。そうすると、いまある命への感謝が湧いてくる気がしています。

それではまた。

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