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ふじのやま

富士山は、僕にとってある種の信仰対象だ。

中高生の間に、都内各所から富士山を眺められること知った。
同じ頃に本格的な登山も始めたので、関東の山々から眺める富士山の美しさも知った。

独立峰だからこそ有する孤高の姿とでも言おうか、周りの山から頭ひとつ抜けて高く、しかしそれでいて麓が広くどっしりとしている。安定感というか、腰が据わったような揺るぎなさが、富士山には、ある。

考えてみると、日本に独立峰の山は少ない。「〇〇山脈」と呼ばれるような連峰が比較的多い。だからこそ、独立峰の山でそこそこの標高があるものは、「〇〇富士」と名づけられるのだろう。


朝の丹沢にて


富士山の美しさが愛おしくて、数年、カメラでずっと追い続けてきた。そしてやっと気づいた。「富士山」は終わらない。「どこからどこまでが富士山か?」という質問には、誰も答えられないのだ。
富士山を麓まで見渡すと、限りなく富士山の一部としての斜面が続いている。
ずっと、ずっと、ゆっくりとしたカーブが続いている。数学に出てくる「漸近線」のような、終わりのないカーブ。このカーブに切れ目はない。すなわち、「ここまでが富士山です!」というラインは、おそらくない。

一見、この写真は富士山の「外側」で撮られたかのように見えるが、さらに遠くから見ると、この神社さえ富士山の山麓(斜面のカーブ)上の一部に建っているように見えるのだろう。

だから、たとえば、富士吉田市から富士山を外部化して「見る」ことができても、富士吉田市も紛れもなく富士山の一部なのである。

この発想を持って富士山を眺めると、その巨大さゆえの寛容さや包容力を実感する。やっぱり、富士山は終わらない。


富士山麓の町(富士吉田市にて)


今年度に入って、自分のクラス(学校@東京都世田谷区)から富士山が見えるようになった。願ってもいない幸運だった。富士山を崇拝する僕は、教室の窓にあの美しい顔が現れるだけで、心が震えてしまう。何度見ても変わらない。富士山への愛、信仰。美しさと包容力への憧憬、そして「見えた!」という感動。富士山が見えるといつも、その偉大なるエネルギーを受け止めようと、思わず伸びをしてしまう。



どうやらこの感覚は基本的に全時代共通らしい。富士山は人間にとって何千年、何万年もの間信仰の対象であり続けている。ただ、時代によって差異もあるのだろう。噴火が起こった時には「自然への畏敬」が信仰の中心となり、近づくことが憚られる。一方、噴火のない穏やかな時期には、(今の僕のように)愛と憧憬をもって捉えられ富士登山が盛んになる。
明確なことはわからないが、おそらく間違ってはいないだろう。(ただ、噴火の有無によらず「畏敬の念」というものは存在するので、言葉遣いの難しさがある)


山岳信仰も歴史が古い。




とにかくだ。先人たちも、僕も、もしかしたらあなたも、富士山を愛している。

それで十分だ。「繋がってる」という感覚で、心が満たされてゆく。限りなく続く富士山は、限りのない、あらゆる人の心の拠り所なのだ。


富士山と御殿場の街明かり、そしてオリオン。全部、繋がっている。


少し話が逸れるが、写真を趣味にしていると富士山撮影の難しさがわかる。富士山は、案外、雲を被っていることが多いのだ。天気が晴れていても富士山が雲に隠れてしまうのは、よくあることだ。理想通りに全てが運ぶことは、滅多にない。だからこそ、またこれも信仰心を強化する。


まさに天空。富士山の存在感を思い知る。



ところで、首都から自国の最高峰の山を眺められる国はそう多くないという。
東京から富士山を見られることは本当に幸せなことだ。
そして、それが時間と空間を超えて人々の心を繋いでいるのは、とても素敵なことだ。


新宿の街並みと富士山
ゆりかもめ(お台場)と富士山


そんな憧憬があるから、東京人は、駅のホームで、歩道橋で、橋の上で、富士山を見つけるとスマホをかざして写真を撮る。
富士山に向かって人々がスマホを向けている光景は、一見、個人主義の帰結のようでありながら、みなが富士山の美しさと「見えた!」という感動を共有しているという点で、やはり人々の心が繋がっている瞬間だといえる。さらには、スマホをかざす現代の人々は、浮世絵を描いた江戸人たちとも感覚を共にしているのだろう。だからやっぱり、富士山は終わらない。限りのない心の拠り所であり続ける。

東京は破壊と創造が繰り返される、めまぐるしさを持っている。景色は時代と共に移り変わり、人々の間では命のバトンが繋がれていく。それでも富士山は、何時でも変わらない。変わらないからいい。


東京の街並みと、鳥と、飛行機と、富士山。

いや、厳密には、富士山も変わっていくものだ。噴火によって形を変え、今の姿がある。これから先、噴火で今の美しい円錐型は失われるかもしれない。富士山だってめまぐるしさを持っているはずなのだ。

それなのに人間にとって富士山が不動のように見えるのは、富士山の持つ時の流れが、遥かに長く大きいものだからだろう。人間の一生、さらに言うと、日本に居住してきた人類の歴史の長さは、富士山のそれと比べ物にはならない。富士山のめまぐるしさは、人間の把握出来る時間を超越している。


人間の営みと富士山。真夏の合宿先より。雪のない富士山もいい。


だから、やはり畏敬の念を感じてしまう。ため息が出てしまう。

けれど、きっと世の中にはずっとずっと大きいものもある。富士山の歴史だって地球の歴史から見たら浅いものだろう。地球の歴史だって、宇宙の歴史から見たら浅いものだろう。富士山は、人々の近くにありながら、「ずっと大きいもの」の存在を教えてくれている。


ずっと大きなもの。ずっと深い色。ずっと深い光と闇。



とすると、富士山の巨大さは、人間の非力さと限界を私たちに突きつけているのだろうか?

ー僕はそうは思わない。むしろ、富士山の存在が、私たちを富士山自体に、そしてその先にあるずっと大きいものやずっと深いものに結び付けてくれているような、そんな気がするのだ。時間と空間を超えてつながっていく富士山をめぐる人間の営みと自然の営み、その永遠的な持続の中に富士山の持つ重要な意味が秘められている。

トワイライトタイムの富士山












よく晴れたある日のこと。
朝起きたら雲ひとつなかった。
気分を踊らせて学校に着いたら、
やっぱり。予想通り、綺麗に富士山が見えた。

こんな確かな幸せを与えてくれる富士山を、僕は愛し続けたい。

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