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“伝説のライブ”のアーカイブ

この間、テレビで古今亭志ん朝が「火焔太鼓」をやっていた。別の日には、同じく志ん朝の「愛宕山」や談志の「居残り佐平次」も放送されていた。
NHK・Eテレでアーカイブ映像からクラシック音楽や落語、美術などの過去の映像を放送する、「おとなのEテレタイムマシン」という番組だ。

名人の一席をこんなに簡単に見てしまっていいのかとほくほくする一方で、落語会にカメラや録音マイクが入ることを喜ぶ噺家はどれくらいいるのだろう、とふと思う。
寄席やホール落語などに足を運ぶ人はわかると思うが、同じ噺を同じ落語家が話しても、台詞回し、登場人物のやり取りのラリー数、身振り手振りなど、その時々で細部が変わることはよくある。

もちろんまくらからさげまでいつも同じという人もいるだろう。
しかし、生きていて、その時代の空気を吸っているのだから、その時や場所に合わせてまくらを変えたり、ちょっとさげかたをかえたりというのは自然なことだと思う。

コロナ以降、音楽やお笑いのライブに、配信チケットが設定されていることが増えた。

まずもってこれは、主催者にとってもファンにとっても喜ばしいことである。

席数に上限のあるステージイベントで、上限のないチケット販売が可能になる。売上の天井がチケットの完売となるビジネス上の制約をグッズ販売などで拡張しようとしてきた主催者からしたら、ステージというメインコンテンツを作りこむことに対する売上可能性が増えることは福音に等しい。
もちろん安定した、観客が満足できる配信を行うための追加投資は必要だが、そもそもステージ制作に投資を行っているのだから、追加投資のハードルは低い。

ファンからしても、パフォーマンスを見逃すことがなくなる。会場の席が取れなくても配信で見ればいいのだ。
イベントによっては配信期間も長く、たとえライブの時間に仕事や別の用事が入っていても、後から見ることができる。ライブ会場の遠くに住んでいる人からしたら、これはもう革命だ。
交通費や宿泊費、移動にかかる時間を都合しなくても、家のベッドやソファーで見ることができるようになる。ホームシアター設備があれば、ちょっとしたパブリックビューイング状態である。友達と一緒に見て、布教活動だってできる。

それでは、パフォーマンスを行うアーティストにとってはどうだろうか。
おそらく、悪い話ではないのではないかなと想像してみる。地理的な限界に縛られず、より多くの人がそのパフォーマンスを見るきっかけになるだろう。再配信されれば、時代を超えてパフォーマンスを見てもらえるようにもなる。ファンから「ライブの抽選外れました」「どこどこにもツアーで来てください」と、アーティスト本人の力だけではどうしようもないことを言われる可能性も減るだろう。

しかし、その場限りのよさ、というものは失われるかもしれない。

いつでも見ることができるから、見逃してもあとで見たらいいからと、鑑賞の集中力が落ちた経験のある人はいないだろうか。
パフォーマンスをする側からしても、その場限りを共有すると思うからこそのパフォーマンスがあると思う。残ることを考え、本来の形からあまり崩さないようにしようとか、MCはちょっと真面目にしておこうとか。

記録されていない、その場限りのパフォーマンスを見ることができるのは、その限定された時空間に居合わせた人だけだ。
同時代を生き、その瞬間にそのアーティストへ向き合うことができた人だけが、「それ」を目撃できる。
時間と空間と熱量(とお金)の壁が、目撃者という存在を生み出す。

そして、目撃者が語ることで、伝説はつくられるのではないかと思う。

だから、「伝説のライブ」を望むのならば、それをアーカイブで見ることは諦めたほうがいい。
なぜなら、時間や空間を超えてみることができてしまったら、伝説ではなくなってしまうから。

そう思いながら、名人芸のアーカイブ放送を楽しみ、夭逝した画家の作品集を眺め、矛盾を自覚しながらも残っていることのありがたさを噛み締め、日々を過ごしているのである。

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