「化け猫あんずちゃん」考察! 「死」は特別じゃない? 東京も池照町も地獄すらも現実の延長にすぎない
こんにちは。今回は、アニメーション映画「化け猫あんずちゃん」についての感想を話していきたいと思う。それではさっそく始めていこう。
「化け猫あんずちゃん」は実写の映像をトレースしてアニメーションを作る、ロトスコープという手法で制作された作品である。そのため、今作はアニメーションでありながら、キャラ達に実写のような繊細な動きや、リアルな実在感を持たせている。同じくロトスコープで制作された「花とアリス殺人事件」を観たときも感じたのだが、上手く使えばアニメと実写のいいとこ取りができるという意味で、作品によっては、ロトスコープは極めて有効な手法である。
例えば「花とアリス殺人事件」のように、実写よりの雰囲気でアニメ作品を作る事もできるし、「化け猫あんずちゃん」のように、化け猫という非現実的なキャラクターを、リアルな人間の動きで描く事で、不思議な実在感(存在感)を出す事もできる。
そして物語の方だが、池照町という町のお寺に住む化け猫あんずちゃんと、父親が借金を返し終わるまでの間、あんずちゃんがいるお寺に住む事になったカリンちゃんの話だ。
こういった物語を描く時、普通は東京から池照町にきたカリンちゃんがあんずちゃんや池照町の人々との出会いを通して、少しだけ成長して東京に戻るというような話になるはずだ。
しかし、今作はそのようなよくある構造の話ではない。まず、あんずちゃんは、別にカリンちゃんを成長させるキッカケになったり、なにか問題も解決してくれる訳では全然なく、ただ一緒にいてくれるだけの親戚のおっさんのような存在なのだ。
さらに、今作は、終盤まで特に何か大きく物語が動くわけでもない。池照町のあんずちゃんや妖怪たちの緩い日常や、父親においていかれ不貞腐れているカリンちゃんの姿が描かれるだけだ。(そしてこの緩い日常が面白い)
そして、物語の終盤、カリンちゃんが、あんずちゃんと一緒に亡くなったお母さんに会いに地獄へいくという展開になる。地獄への入口は東京の共同墓地があるビルのトイレにあり、特に何か条件や代償もなく簡単に地獄に行けてしまう。そしてカリンちゃんの母も、地獄にあるホテルで普通にトイレ掃除をして暮らしている。
これらの描写からわかるように、今作では地獄(死後の世界)ですら特別な世界ではなく、カリンちゃん達が生きている世界(現実)の延長に過ぎないのだ。だからこそなんの障害もなくトイレから地獄に出入りできるし、お母さんも生前となんら変わらない姿で仕事をしている。
それは池照町もそうで、今作において池照町は特別な場所ではない。カリンちゃんを成長させたり、なにか価値観を変えるような特別な場所ではなく、カリンちゃんにとってはあくまでただの田舎にすぎない。東京(現実)池照町(虚構)というような対比にもなっていない。東京も池照町もただの現実にすぎず。地獄すらも別世界ではなく現実の延長なのだ。
だから、カレンちゃんは、最後お母さんがこの世から消えてしまったという、ずっと受け入れられなかった母の死を受け入れて成長するのではなく、お母さんにきっとまたいつか会えることを希望に生きていくことを選ぶ。死とは消えてなくなるわけではなく、ただ現実の続きを生きることだ。だからカリンちゃんが現実をちゃんと生きて、いつか死んだ時、またお母さんと会えるのだ。死後の世界すら特別ではなく、現実を生きた人が必ず行く場所だからこそ、カリンちゃんはお母さんの死を受け入れる必要すらなくなる。 だってまたいつか会えるからだ。
そしてあんずちゃんも、特別な存在ではなく、ただ一緒にいてくれる存在だ。お母さんに先立たれ、父親にも捨てられた(と思い込んでる)カリンちゃんにとって必要なのは、特別な優しさではなく、あんずちゃんのようにだだ一緒にいてくれる存在だったのだ。また、東京の彼氏?が象徴するような、周りの早い時間の流れに自分が置いていかれたように感じていたカリンちゃんは、池照町やあんずちゃんのように緩やかな時間の流れに触れる事、そんな世界もあるという事を知ることが必要なのかもしれない。
物語の最後、カリンちゃんは、自分を迎えに来てくれた父親ではなく、あんずちゃんの元に戻っていくシーンでこの物語は幕を閉じる。今作は、東京から来た問題を抱えた少女が池照町という田舎で自分自身の問題と向き合い、成長して東京に戻る物語ではない。東京も池照町も地獄すらも同じ現実だからこそ、カリンちゃんは自分が一緒にいたい方(場所)を選んだという話だ。 全て特別じゃない同じ世界なら、自分に今必要な現実(世界)を選ぶだけだ。ラストカットのカリンちゃんは、自分が選びたい物を選ぶ事ができた。この子はもう大丈夫だろう。
僕の感想はここまでです。ありがとうまんにゃー
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