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映画「ルックバック」感想 藤本タツキの創作(虚構)に対する無力感と希望! 京本は全ての創作者が持つ原動力の比喩?

 こんにちは。今回は藤本タツキ先生原作の映画、「ルックバック」の感想を話していきたい。それでは初めていこう。

 今作は、学級新聞の四コマ漫画を通じて出会った藤野と京本の2人が、漫画(絵)の道を突き進んでいる話である。しかし、物語の後半、京本は理不尽な暴力によりその道を絶たれる。

 この展開は、一説では京アニの事件も部分的にモデルになっているとも言われている。そして、今作のパンフレットで、タツキ先生がルックバックを描くきっかけとして、東日本大震災の時に、クリエイターとしての自分に何ができるかという無力感があったと語っている。このことから、今作のテーマに一つとして、東日本大震災や京アニの事件のように、現実の事件や出来事に対して、創作(虚構)は何ができるか?という問いがあると思う。

 作中では、京本が死んだあと、藤野はその現実を受け入れられず自分を責める。しかし、藤野と京本が出会わず、京本が死ななかった世界線から、京本が描いた四コマが藤野に届き、藤野はまた漫画を書き始める。

 このことからわかるのは、創作(フィクション)は前提として無力だという事だ。 京本が死んだ世界が現実なら、京本が生きていた世界、あれは創作(フィクション)の比喩だ。創作の世界の中で、京本が生きていた世界を描いても、当たり前だが、それで現実世界の京本が生き返ったり、藤野が救われたりと、何かが解決するわけではない。それと同じように、創作で震災や京アニ事件が起きなかった世界を描いても、現実世界でそれが何かを解決することはない。

 しかし、藤野は京本からの四コマをみて、漫画を書き続けることを選ぶ。創作とは無力であるが、少しだけ藤野を励まし、背中を押すことができた。現実ではなく逆に創作(虚構)だからこそ、人に救いや希望を与えることができることもある。現実にはできない、虚構だからできる救いや励ましもあるかもしれない。そんな藤本タツキ先生の、創作に対しての無力感と希望が描かれているが「ルックバック」という作品なのだ。

 そして、京本は、創作者が持つ原動力の比喩的なキャラだと思った。作中でも描かれているが、絵を描き続けることは、強い意思や、モチベーション、忍耐力が必要になる。だからプロの漫画家になるような人は、努力を継続するための強い原動力があったはすだ。それは人によって様々で、好きな作品やスタジオであったり、ライバルであったり、仲間の存在だったりしたと思う、そういった、全ての創作者が持つ原動力の象徴が京本なのだ。

 藤野にとっては京本へのライバル心、そして自分が勝てないと思った京本に認められた事が、モチベーションの原点だった。 小学生の時の藤野にとって、創作(漫画)は手紙だった。 学校の不特定多数を楽しますための手紙ではなく、京本というたった1人に届けるための手紙だ。作品とは、もちろん不特定多数の多くの人に届くものだ。しかし、その作者にとって手紙が届いて欲しい誰かは、たった1人かもしれない。伝えたい事もたった1つかもしれない。藤野にとっての京本がそうであったように。

 次に映像については、今作は、ほとんど絵を描いているシーンであり、とくに派手なシーンもないため、下手したら退屈な映像作品になってしまう。しかし、原画をクリンナップせず、直接映像にする手法により、映像そのものに力があり、ずっと見ていられる。さらに押山監督をはじめとした敏腕アニメーター達の力により、日常芝居や絵を描くシーンだけでもまったく退屈な映像になっていない。

 特に、京本に褒められた藤野が、雨の中喜び、踊りながら帰るシーンがある。このシーンも、アップやカット割りで見せるのではなく、長回しの引きの絵で、藤野の動きを存分にみせるやり方は、相当画力の高いアニメーターがいないとできないことだ。という訳で、映像面のレベルの高さはすごかったと思う。

 僕の「ルックバック」の感想はこんな所だ。ありあとうございました。ではまた!

 

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