◆現実認識の裁ち直し(5)なぜ現実認識の裁ち直しが必要か。一つには、言葉により零れてしまった何かが無意識層に積み重なり、これが心に呼びかけるからである。もう一つには、固定的で頑迷な現実認識で行き詰まる自己及び他者に柔軟剤をかけてあげ、新しい「現実」を拓き、希望をみるためである。
◆理論と実践(2)なぜレトリック論(言語哲学ー言語技術)と決疑論(事例比較、類似からの議論)が有力か。焦点は「どうやって新しく現実をみつめ直すか(現実認識の裁ち直し)」であるところ、両論の「技術」が、既存の分節層を揺れ動かす力、新しい分節層を与える力を持っているからだと思われる。
◆現実とは厳然たるもの。気持ちの持ちようでどうにでもなるというものではない。他方で、言葉原理のコアをつかみ無限の分節層を自在にできれば、現実は新しい相貌をみせる。そこをつかむ。ないと思っていた次の足を踏み込む場が認識できれば、新しい一歩を踏み出せる。言葉の探究は実践論である。
◆現実認識の裁ち直し(4)言葉という「仮」分節体系という性質と、現実や対象を言葉により「構成」するという性質から、現実認識は裁ち直すことが原理上できる。もちろん、特定の文化言語の下に、他者と共約可能を求められるという制約条件がある。しかし、そうであっても確かに自由がある。
◆現実認識の裁ち直し(1)分節ということは、差異と同一を感知して、仮に切断して仮に結合していることを意味する。なぜ「仮」なのか。現実の実相は、無限の諸相と内包を有し、かつ変転してやまない流動体であるゆえに、どのように分節しても掬い切れず、必ず「帯に短し襷に長し」となるからである。
◆現実認識の裁ち直し(3)現実や対象を言葉にするということは、言葉という分節的認識体系によって現実や対象を構成する、ということである。この時、どの視点で見るか、どの抽象度を捉えるか、どの瞬間をつかむか等は表現者に開かれている。かかる作業である以上、そこに一定の自由度が生じる。
◆現実認識の裁ち直し(2)言葉は分節体系として、二重の恣意性(非必然性という方が感じをつかみやすいが)すなわち、現実をいかに切り取るかという恣意性Ⅰと、当該言葉のシニフィアンとシニフィエをいかに結合させるかという恣意性Ⅱを有する。恣意的である以上、ここに原理的な自由が存在する。