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それは突然のことだった

1年前

【ヨガ日記】食べて、寝て、ヨガして④~石井光太さんのファンです~

1年前

青春のやり直し

別れ

DISCO

思い出したくもない。 あの文化祭の日、お化け屋敷に入りみんなでキャーキャー言っていた。 私はみんなと少し離れてしまいキザ男と二人で歩く事になる。 出口付近が近づいて来た時いきなり抱きすくめられた。 そしていきなりキスされた。 私は思わず両手で押しのけバシッと頬を引っぱたいたのだ。

研修~

「お前がやる気がないからだぞ!ぜったい辞めさせねえからな!」コーチが私の背中に叫んでいた。私は悔しくて泣きながら走って外に出た。中庭を過ぎて高台に出ると芝生に座り込み 片思いの彼が練習している野球部のグラウンドを見下ろしていた。 彼らも 頑張っていた。3年生が引退して2年中心だ。

長い長いフライトの末、やっと日本に着いた。 もう9月1日だった。 新学期が始まっていた。 私たちは 明日から また高校生活に戻るのだ。 この旅で 本当に 貴重な体験をさせてもらった。 私はあらためて両親に感謝した。 両親も 少し成長して帰ってきた娘を誇らしげに眺めていた。

バレー部の合宿に戻ると、コーチに呼び出された。怒鳴られると思っていた私は、素直に謝った。 だが、コーチは叱る事もなく「残念だったな、野球部。」と言ってくれた。なんだかイヤなヤツ、と思っていた自分を恥じた。すると 「食事の事だけど消化のいいのにしてくれ。」と言い放った。 は?なに?

またしても、転校生だ。。。 転校します。と、クラスの皆の前で挨拶すると、 くに子ちゃんが「お手紙ちょうだいね!」と言ってくれた。 私は 涙を堪えて 「うん! みんなに書くから お返事くださいね。」と言った。 そうして、本当にクラス全員ひとりひとりに手紙を書いた。

「・・・・・」 黙ったまま、三澤くんは 行ってしまった。バスケ部の練習があるからだ。 くに子ちゃんは、前にも増して大田くんに モーションをかけていた。 だけど 当の大田くんは 本当に興味がなさそうだった。 彼女に、というより 恋愛感情そのものが欠如しているようにも見えた。

実は私には、彼に呼び出された時から予感があった。 彼は最初言い出しにくそうにしていたが、重い口を開いて「付き合うの、やめよう。」と言った。「自分は これから浪人で予備校に行く事になる。勉強漬けの1年にしないといけない。だから・・・」 「わかった。頑張ってね。」としか言えなかった。

このセミアタックは、なかなかタイミングを合わせるのが難しかった。普通にオープンに上がったトスには3歩でアタックするのを、セミトスの場合は2歩で打たなければならないのだ。トスが少しでも長かったり短かったりすると失敗してしまう。これを私たちはコーチから特訓を受けまくった。

そして、練習は まさしくシゴキと言えるものだった。レシーブ練習ではコーチとたいまんで1対1で跳び箱の上から次々にアタックを打ち込まれる。それだけではなくフェイントや大きく飛ばす球などを入れて それを追いかけるワケだ。私は その日は 特にやる気が起きなかった。体調が悪かったのだ。

「きょう日本に帰ります。」とだけ言ってすぐにホテルに取って返した。通りを渡って振り返るとシスターが出て来て手を振ってくれた。私も手を振って「Thanks!」と叫んでいた。とても幸せな気持ちでホテルに戻ると、すぐに集合時間だった。本当にきょう帰国なんだ・・・と思った。

私は大事な事を忘れていた。シスターたちに お礼をしていなかった。何かプレゼントを渡せば良かったと、すごく後悔が残った。それでも もう遅かった。明日には、帰国の途につくのだ。今夜 出かける訳にもいかない。私が食欲もなく暗い顔をしているので仲間がまた心配している。私は諦める事にした。

昨日は直ぐに着いたのにきょうは特に遠く感じた。タイムリミットがあると気持ちばかり焦る。やっと(という感じで)扉を開けてみた。昨日の太ったシスターがそこにいた。私は、昨日のお礼を言い日本から持って来た絹の風呂敷を渡した。こんな物しか残っていなかった。それでもシスターは喜んでくれた。

就職

この弟が邪魔で、思わず「ヤダー、小児麻痺みたいー」と言ってしまった。その場の空気が凍りついた。と感じた。 弟は、本当の小児麻痺だった。れい子ちゃんから聞かされた私はすぐさまキクちゃんに謝った。私は本物の小児麻痺をいままで見た事もなかった。 キクちゃんは「大丈夫、本当だし」と言った

中学1年1学期。 父に また転勤辞令がおりた。 だが父は これを蹴った。 「次は本社勤務の筈だ。」と思っていたのに それが叶わない事に 腹を括ったのだった。 実は、支店長仲間の一人が前年に辞職して 呉服店を営んでいた。 そこに 父も 誘われたのだ。 父の背中を押したのは母だった。

当時は まだ成田国際空港もなかった。 1ドル360円の時代だ。 アメリカ・カナダ40日間の為に いったい幾ら 持って行ったかは 忘れてしまったが、私としては今まで持たされた事のない額を小遣いとして渡された。それを半分はトラベラーズチェックにしてもらった記憶がある。

電話を切って、傍で聞いていた今田くんを問いただした。やっぱり みんなで休む約束を交わしていた。その【男の約束】を守ったのは、彼だけだったのだ。 試合に負けたのは彼のせいじゃないのに・・・。誰が言い出したのか、馬鹿な約束しちゃって・・・。私は彼の代わりに悔しさをぶつけた。

学校の公衆電話から彼の自宅に電話をかけた。 電話口に出た彼に「大丈夫?どうした?」と問いかけると「ただの風邪」と言う。「今田くん達も全員来てるのに」と言うと・・・驚いたような声で「えっ?」という返事。 「もしかして皆で休む約束したの?」 「いや、ただの風邪だよ」 なんて いい 奴

翌日、彼は学校を休んだ。 もしかてキャプテンの今田くんや遊撃手の市川くん、ライトの仲嶋くんの野球部3年生も休んでるかと思ったが全員来ていた。そして今田くんが私に「三池に電話してくれないか」と頼みに来た。ははん、もしかしたら、全員で休もうぜ、という事だったのかも知れない、と思った。

私たちバレー部の合宿中に、野球部の第一回戦が市の野球場で開かれる事になった。私は どうしても応援に行きたかった。ただ それをコーチには言い出せなかった。副マネージャーが私に「言って来なよ。こっちは大丈夫だから。私たちで何とかするから。」と言ってくれた。 私は、市の野球場に急いだ。

そして、同じ時期に 野球部も合宿期間に入っていたのだ。 ただ 野球部には マネージャーがいなかった。 誰が野球部の食事の面倒をみるのかと思っていたら、なんと 遊撃手の市川くんの彼女が いつの間にか マネージャーのような仕事をひとりで全部やってのけていた。 彼女の名前は秋本よう子。

翌日、登校して 手紙を彼に渡してくれた女友達に お礼を言った。 「やっぱり?良かったじゃん。ふたりお似合いだもん。たぶん1年の時から気持ちが通じてたんだと思うよ。あんなに思ってたんだからサ。」と、彼女は素直に喜んでくれた。 少しでも彼女を疑った自分を反省した。

ただ3年になってクラス替えになるのは嬉しかった。 もしかしたら片思いの三池くんとまた同じクラスになれるかもしれない。 淡い期待と祈りにも似た想いが私を乙女チックな気分にさせてくれた。 私は自分の片思いそのものに恋していたのかも知れない。 彼を好きで堪らない自分が好きだったのだ。

クラス替えの件は、2年の3学期に入った途端、噂話として流れ始めた。当のD組の連中は その噂によって益々 騒ぎを起こすようになった。私は D組の前の廊下を通る事さえ怖かった。窓は外されてるしその開け放たれた教室の中から「ヒューヒュー」と口笛を吹かれるのだ。同窓生とは思えなかった。

私は ちっとも可愛くなんかない。 私が悪い。 自分に隙があるからだ。 ニューヨークの最後の日も そうだった。 好きでも何でもないヤツに隙を見せてるんだ。 バレーのコーチも そうだ。 私が ちゃんと 断っていれば良かったんだ。 もっと毅然としていなくては・・・ そう思った。

当時のバレーボールは、レシーブ→オープン無回転トス→オープンアタック或いはバックトス→バックアタック、というのがセオリーだった。コーチは、そのトスをオープン側(レフト)に平行気味に、バックトスをセミ(短め)に上げる、というものだった。私はライトアタッカーだったのでセミに合わせる。

コーチは、車に乗ると決まって訳の分からない音楽をかける。たぶんチベット音楽とか言っていたような・・・。 そして決まってタバコを吸い、そして決まって、こう言うのだ。 「お前のマッサージは最高だ!」と・・・。 私は、背中がゾワッとするのを感じる。この感覚、虫唾が走るという事だった。

すぐに同級生の部員たちが後を追って来た。 「辞めるとか言わないで」とか「コーチも ちょっと やり過ぎたと言ってた」とか「三池くんも頑張ってるジャン」とか口々に慰めてくれた。 さっきまでは本気で辞めるつもりだった。 ひとしきり涙を流し終えたら、なんだかスッキリしていた。

次に私が呼ばれた。仕方なく私がレシーブについたが 最初からやる気のない私はフェイントは前に出られず、大きく飛ばす球も追いかけられなかった。私へのシゴキは30分も続いた。「もう やってらんない!ナツは5分で終わったのに!なんでアタシばっかり!辞めてやる!」私は外へと駆け出した。

私の前に ナツという下級生がレシーブを受けた。彼女はコーチが呼び寄せたと言っていた子だ。中学でもキャプテンだった。何事にも一生懸命に取り組む頑張り屋だった。彼女のレシーブ能力は私たちも見習うべき粘りがある。どんなに強い球でもどんなに緩い球でもしっかりレシーブして、5分で終わった。

私とキクちゃんは その事があってから 親友と呼べる関係になった。 「誰もかれも私に遠慮するの。弟の事 本当は邪魔なのに装ってるだけなの。みいちゃんが初めてだった。本当の事をズバッと言ってくれる子は初めてだった。」と言った。 私の口には蓋が出来ない。すぐに口に出てしまうだけなのに。

時差ボケもなんのその、翌日から普通に登校した。 2年生の夏休みをすべてカナダ・アメリカで過ごした私は もう なんだか大人びて ほかの子たちのガキっぽさに退屈していた。 ただ、部活の方は 辞めさせてもらってなかったので普通に練習に行った。 自分としてはマネージャーのつもりだった。

だが、コーチに言わせると「プレイイング・マネージャーだ。」という事だった。選手としての練習も普段どおりこなし、マネージャーとしての仕事も山のようにあった。 3年生は、この夏休み中の試合を最後に引退していたので 選手不足という理由もあったのかも知れない。私は不満と不安を抱いていた。

翌朝、早い時間に目が覚めてしまい、ホテルのロビーに集合する時間まで3時間ほどあった。私は 同室の子を起こし「日本へのお土産を買ってくる。すぐ戻るから」と言って ホテルを出た。真っ直ぐセントラルパークを抜けて 通りを渡れば すぐの場所だ。往復で1時間もあれば戻れる距離だった。

真琴

彼が帰っても、私はその場から歩き出せないでいた。 ひとりでブランコに乗り、ただいつまでもブラプラ揺れていた。 どうして?と聞けなかった。 私が先に短大に行っちゃうから? 予備校生でも彼女がいちゃダメなの? 不思議と涙は出てこなかった。 嘘でもいいから 泣ければ良かった。

そして、彼のほうは、六大に落ちた。たぶん目指したところのレベルが高すぎたのだ。 それでも 私の、彼への気持ちは変わらなかったし、彼も私を思っていてくれているものと信じて疑わなかった。 そして卒業前に私は彼に呼び出された。 いつものバス停の前の公園で待っていると、彼が現れた。

3学期の期末試験をパスし、きょう子とふたりで図書館で勉強・・・していたつもりになっていた。もう卒業も迫っていた。彼との付き合いも順調・・・のつもりでいた。 きょう子が、ある短大の二次試験の話を持って来た。そこを落ちたら もう 道は無かった。浪人か就職しか残っていなかったのだ。

この家には1週間滞在した。 週末には また 参加者全員が集い farewell パーティーが催された。 仲良くなったカナダ人の男子高校生も来ていた。 私といっしょに この交換学生に選ばれた同級生が 好きになった男の子も来ていた。 彼女は、その彼とラストワルツの曲でダンスを踊った。

夏休みのある日、野球部3人組と その彼女3人でトリプルデート、という日があった。 県内の渓谷にハイキングというかピクニックというか・・・。楽しい楽しい そんな日になる筈だった。 往きは2両編成の田舎電車で渓谷駅まで行き、そこから歩いて渓谷を廻ろうという計画だった。

ところが、両親は、特に母親は「短大くらいには行っておけば?」と言う。 私は小さい頃から母親の言葉には洗脳されている伏しがあった。母親の言葉に逆らえない何かに支配されていたところがあったと言ってよい。 その言葉通り、短大を目指す事になるのだが、それでもまだ本腰を入れてはいなかった。

その家族は 良い意味で 私を放置してくれた。housemaidのおばさんも とても良い人で 本当の娘と同じように私を扱ってくれた。 私は 英語は得意だったが 会話は まったく別物だった。その事を思い知らされた。 会話は頭で喋るものではなく 心で喋るものだった。文法くそくらえだった

とても大きな家で家の裏には広大な森がどこまでも続いていた。テニスコートが2面とバスケットコートもあった。それが全部 この家族だけの為のものだった。大きな犬が2匹いて 毎朝の散歩が私のお役目にされた。私は犬が苦手だったのが、大人しくて利口な犬たちだったのでとても好きになった。