Mimomin T.
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それからは、もう怒涛の生活だった。 朝から仕事に出かけ 昼休みには、職場の近くに見つけた美容院で シャンプーブローしてもらう毎日。 夕方 帰宅して 着替えてから 毎晩のように 赤坂ヴィブロスに通う。 真琴も私も。毎晩毎晩 飽きもせず。 狂っていた、と言ってもいいくらいだった。
翌日、私は簡単にまとめた荷物を持って、真琴の部屋に転がり込んでいた。 事情を察してくれた真琴は黙って私を部屋に招き入れてくれた。 亮司と住んでいた部屋には短い手紙を置いてきた。 「あなたの病気は一生治りません。サヨナラ」とだけ。 その頃は、携帯電話など無い時代。 翌日、会社に亮司から電話がかかってくる。「仕事中です。」と言って受話器を切る。 その翌日は、亮司の先輩から電話がかかってくる。ひととおり話は聞くが、私の決断は固かった。 そしてまた、しばらく経った土曜日
私は、真琴との「遊び」に嵌ってしまった。 ナンパされる自分も「悪くないジャン」と思っていた。 結婚式まで3ヶ月ほどの、ある日、亮司が「大阪に行く。」と言った。 「前の彼女に会って、結婚することを報告する。キチンと別れて来る。」と言うのだ。 引きずっていたのか?と思ったが、私はそれを許した。 翌日、戻って来た彼は、 「彼女と寝た。」と言って、内股に付いているキスマークを見せた。 申し訳なさそうに、ではなく、まるで自慢しているようだった。 なんて、馬鹿な男。正直に
真琴が連れて行ってくれたのは、見附の駅からすぐのDISCOだった。入り口で黒服がチェックする、キチンとしたDISCO。 私は中学の頃からソウル音楽が好きだった。ソウルトレインという番組を毎週楽しみに観ていたくらいだ。 心が躍った。 店の中に入ると、女の子2人連れを誰もが二度見する。そりゃそうだ。真琴は超美人なのだ。真琴は、私の自慢だ。 大音響の中、ボーイに案内されて席に着くやいなや、次から次に男たちがやってきた。「どこから来たの?」「幾つ?」「名前は?」「お酒奢るよ」
同じ頃、私の部署に派遣社員が入社してきた。その頃、世の中に出始めていたコンピューターなるものを操る「プログラマー」だった。まだ、ワープロさえ知らなかった時代だ。先端を行く仕事だった。 真琴という名のその女性は、私より2歳も年下だったが、大人びた雰囲気を持つだけでなく、「超」がつくほどの美人だった。現在の「紫 式部」・・・まるでそんな感じがする女性だった。 私が彼女のお世話係りになって、いろいろ教えてあげていたのだが、あっという間に仲良くなっていた。たぶん、感覚的に同じ匂い
入社してから、2年が過ぎていた。同棲のことは秘密にしていたが、どうやら周りの連中にはバレバレだったようだった。 同棲し始めてから、1年も経たずに、ふたりの両親同士が会い、同郷ということもあって、意気投合。私たちの結婚話がトントン拍子に進められていった。 私は、結婚そのものに憧れていたし、いい奥さんになれる自信もあった。 その前に、ふたりの住まいを新しく見つけて、生活の拠点をしっかりさせる必要があった。 そこで、亮司が見つけてきたのが、東横線沿線の新築アパートだった。今
亮司が決めてきたアパートは、4畳半と3畳の続き部屋に1畳の台所とトイレのみの、安いアパートだった。快速電車の停まる駅から徒歩で15分もあるところにあった。その部屋は1階、しかも両脇が部屋に挟まれている中部屋だった。当時、既に結婚を約束してはいたが、とにかく流行りに乗ってしまった、と言えるような同棲生活が始まったのだった。 亮司は、航空会社で整備士をしていた。彼の口癖は「俺は、幹部候補なんだ。優秀だから、上が放っておかないんだ。」そんな事が本当に聞こえるほど、彼は口が上手かっ
それなりに、つわりのような症状も現れ、ん?おかしいな・・・と思っていた。それが妊娠だと分かってから、ふたりで悩んだ。 とにかく、ふたりとも若かった。私は20歳になったばかり。彼は、まだ未成年だった。
それから、間もなくして、実家の両親が海外旅行に行くことになった。留守中、私に実家に居るように言われたのだった。 私は、その内の1日を亮司と過ごした。 始めは、食事に招待したつもりだった。寮の食事などつまらない、と言っていた彼に、自慢の手料理を食べさせたかった。それだけのつもりだった。 ただ、それだけでは済まなかった。
鶴のマークの航空会社。当時は、日本で一番の大手の航空会社だ。そこの整備士と知り合った私。ある意味、ブランドに惹かれたと言っても良かった。 彼らの誘いに乗り、独身寮の夏祭りに出かけて行った。夏祭りと言っても寮の中庭を開放して、ご近所の商店街やご家族をご招待して、友好を深める、という目的のように写った。子供たちも大勢いて、綿菓子やヨーヨーやかき氷や何か雑多な物をいろいろ売っていた。売り子は、寮の若者たちも混ざっていたようだった。 私を駅まで迎えに来てくれた亮司は、車を運転しな
7月半ばを過ぎた頃、ある日の帰宅時。いつものように東京駅地下2階の快速乗り場に立っていた。(やけに混んでるな・・・あ、そっか みんな夏休みなんだ。みんな家族で海に行くんだわ・・・)なんて考えていると、「スミマセン、いま何時ですか?」と声が聞えた。(えっ?私?私に聞いてるの?)と、そちらを振り向くと、腰を屈めて、屈託のない笑顔をこちらに向けている若い男がいた。私は不機嫌な様子をあからさまにして、腕を伸ばして時計を見せた。「あ、これ海外製ですね。カナダですか?」 そう、この時計
短大時代に私は、次姉の嫁ぎ先の昭島に下宿をさせてもらっていた事があった。実家から短大のある水道橋まで約2時間近く掛かっていたのだが、昭島も同じくらいの時間は掛かっていた。OLになってからも、時々 次姉の家に帰る事もあった。実家と姉の家、会社からの距離も短大時代と同じでかなり遠かった。しかもどちらも、駅から徒歩で20分以上掛かる。バスもない。 入社してから、飲み会に誘われたり、バンド練習などで遅くなると、帰宅すると決まって父親が玄関先に立っていて、腕組みして私を待っていた。た
ある時、同期入社の女の子から軽音楽クラブに誘われた。彼女はピアノが得意で男性先輩から誘われて入部していたのだ。そこでボーカル担当を募集しているというのだった。 毎日、同じ事の繰り返しでOLもたいした事ないな、と感じていた私は、ちょっと興味をそそられて、練習を見学させてもらう事にした。 軽音楽部と言っても、ギター2本とベースとドラム、あとは彼女のピアノ、という最低人数のクラブだった。 「ちょっと歌ってみて」と、リーダーの男性先輩から言われて、英語の曲を歌わされた。「いいね
私たち女子の仕事の内容は、お茶汲みとコピーだった。コピーも当時は社内にコピー専門の外注があって、そこに原紙を持っていって「何時までに何部」と依頼を出す、という、なんともシンプルな内容だった。 M物産に入社した、高校~短大の同級生のきょう子は、貿易関係の仕事で毎日 相手先との折衝や輸出入に関わるタイプ打ちなどを任されている、と言っていた。 ある日、きょう子と久し振りに会ってお茶した時に、思わず愚痴ってしまった。「私なんか、毎日毎日コピー出しとお茶汲みだよ。」すると、きょう子
研修を終えた私たちは、其々の部署に配属された。仲間の4人のうち2人はFB部、1人はAT部、残る私は計画管理部だった。 仕事の内容など何も分からないまま、大勢の先輩や上司が待ち受ける部署へと散っていったのだった。 私が配属された部署には、たくさんの課があり、天下りの部長の下に、天下りの課長たちと、天下りの主任たち、その下に部下の平社員たちが取り巻く集合体だった。 私たち新入社員の女子は、毎週末のように「コンパ」に誘われた。特に私を含む4人組は「美人4人組」と言われて、もて
それから2週間、研修という名目の合宿があった。代々木のオリンピック選手村だった施設を借り切っての合宿だった。原子力についての講義と実践的な事務の流れ、接客、電話応対など、カリキュラムが組まれていた。 101人の中の女子は13人だった。その中で私を含めた4人の仲間ができた。この4人は、どちらかというと目立つグループだった。なにせ、私を除いてみな美人揃いだった。 男子グループからの引きも凄かった。「〇〇さんに声を掛けづらい」といっては、私に頼ってくる連中が後を絶たなかった。そ