エーテル体というのは アストラル体との対比でいえば アストラル体が天であり男性 エーテル体は地であり女性 植物が際限なく枝葉を伸ばすさまはエーテルの表象、エーテル体過剰発達のあたしはエーテルの“触手”を愛する人へと伸ばす 相手が男なら籠絡するだけだが 女なら彼女も“触手使い”に
左ひざが腫れてアザみたくなってる これは打撲じゃなく どこか内臓からの排毒なのよね 身体は身体自身を『内側から見ている』 皮膚は最外郭にある外界との境界だから そこにゴミを捨てるのは理に適う 身体はそんなふうに自分自身を把握 じゃあ現実世界ってなに? だれが現実を生きてるの?
胸はそれほど育たなかったけど 予想外に大きなお尻 この身体を愛でているのは愉しい そんな見方と別に 身体の中心は一柱の背骨 巻きつくように呼吸器系が下降しており、呼吸器系とは上から下へと魂が入り込む通路。消化器系は地上との接続部。五臓六腑は身体という樹に果実のようにぶら下がって
鏡に自分の姿が映るって不思議 わたしはわたしである以前に 一匹の動物である事実が不思議 男性時代とは別人格/別の魂なので 出生と幼少期を体験していない 他人がわたしを認識するから わたしは実在する というプロセスを経ておらず 内臓に自我が乗っている なので自分に容姿があるのが謎
頭部の過剰発達! ニンゲンのアヤマチ、洗脳の糸口だって 頭部だけが過剰に発達しすぎていること わたしは持病への対応のため 頭部への血流を減らす必要があり 結果的に頭部過剰発達から逃れられた 歌ってる記憶がまったくない (歌う自分は別人に思える) のは歌うときは頭は休眠するから
松村先生が動物系知覚と植物系知覚という分類を多用しているのでそれに合わせた説明。 動物系のわたしは完全にアセクシャルで、肉眼で認識しただけの相手が性欲や恋愛の対象になることは絶対にない。モニターに映っているだけでは出会ってすらいない。 植物系つまり内臓が反応したとき初めて出会う。
植物系つまり内臓での知覚においては、 単純に言って臓器同士の位置関係は生涯変わらず、血液循環のパターンも一生同じ。 なので体内においては『わたし(肉体)は移動することはできない』という世界観が確かに成立している。 体内において人間は植物。 植物=臓器は移動せず外界を認識している。
動物系知覚と植物系知覚というのがあって。視覚を主とする五感での把握は動物系。 植物系知覚というのは人間の場合、内臓が直接、外界を認識する。医学的に知られた存在意義とは別の機能を使って五臓六腑は世界を認識しているし人生を体験している。脳ミソよりも首から下のほうがじつははるかに優秀。
洗脳、という言葉はあるが、 洗胸、洗肚などはない。 自分にとって害にしかならない思考に感染してしまうのは頭だけ。 首から下の自分、五臓六腑も世界を認識しているし願い事を持っているし、それを叶える能力もある。 その能力は頭に抑圧されていて、そもそも首から下の自分なんて頭は知らない。