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※本連載は第29回です。最初から読む方はこちら。
お気づきかもしれないが、この連載には大きな用語の混乱がある。「徳川時代」と「江戸時代」のそれである。
家康の幕府開創から慶喜の大政奉還まで、年数でいうと慶長8年(1603)から慶応3年(1867)までのおなじ約270年間を、私はこれまで「徳川時代」と呼んだり「江戸時代」と呼んだりして特段ことわりもしなかった。こういう場
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※本連載は第28回です。最初から読む方はこちら。
江戸の街なみというと、どんな風景を想像するだろうか。落語の八つぁん熊さんが住んでいそうな長屋の密集もそうだろうし、たくさんの人や荷車が行き交う表通りもそうだろう。表通りの左右には、ずらっと店の軒や看板がならぶわけだ。
けれども単純に面積で考えるなら、第1位はそれらではない。圧倒的に武家地のはずである。
大名屋敷や旗
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※本連載は第27回です。最初から読む方はこちら。
三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎は、天保5年(1834)、土佐国安芸郡井ノ口村で生まれた。
ずいぶん田舎だった上、身分は「地下(じげ)浪人」というものだった。半士半農というより実質的に農民である。それでも村の子供たちは寺子屋にかよう習慣があり、弥太郎もそうした。
弥太郎は、字がへただった。友達にそれを笑われると、
「
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※本連載は第26回です。最初から読む方はこちら。
東京国際空港。
わが国でもっとも重要なこの飛行機の発着場の置かれたのが「羽田」という名の土地だなんて、ずいぶん出来すぎた話で、まるで空港のために地名を創作したように見えるけれども偶然である。羽田の地名がむかしむかし、少なくとも戦国期から存在していることは史料ではっきりしている。当時は飛行機などなかったのだ。
地名の
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※本連載は第25回です。最初から読む方はこちら。
菊池寛が戯曲「父帰る」を書いたのは大正6年(1917)。3年後に初演。この芝居はたちまち大あたりを取り、それからは全国いたるところの劇場や芝居小屋で上演されたと思われる。
「思われる」などと曖昧な言いかたをせざるを得ないのは、実態がよくわからないからだ。当時はまだ現在のように著作権制度が整備されていなかったから、特に地方
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※本連載は第24回です。最初から読む方はこちら。
目黒といえば目黒不動門前〔桐屋〕の黒飴。これはもう『鬼平犯科帳』ファンには常識だろう。じつはこの黒飴は半実在した。
「半実在」などと言うと何やら意味ありげだけれども、かの徳川後期に刊行された『江戸名所図会』にもちゃんと記事や挿絵が……などと、私もファンであるからして、ついつい身をのりだしてしまう。
おのずから説明も急
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※本連載は第23回です。最初から読む方はこちら。
池袋の街は昭和29年(1954)1月20日に誕生した。もちろんそれ以前にも池袋村などという名前で存在はしていたが、ほぼ純然たる農村だったので、こんにち見るような都会ではなかったのである。
この日はじつは、営団地下鉄(現・東京メトロ)丸ノ内線の開業日だった。池袋ー御茶ノ水間。ということは、この時点では、丸ノ内線なのにまだ
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※本連載は第22回です。最初から読む方はこちら。
三兄弟がみょうに気になる。私自身が三人の男の子の親だからかもしれないが、ひとつには三というのが、何というか、安定をもたらす最小の数であることと関係があるのかもしれない。
椅子は脚が二本だと危なっかしいが三本なら落ちつく。御三家、三冠王、三種の神器、三羽烏、三筆、三銃士、三位一体……どれもこれも二つでは足りないし、四つだ
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※本連載は第21回です。最初から読む方はこちら。
渋谷というところは、江戸時代には郊外の別荘地だった。大名や旗本が下屋敷を持ち、広大な庭を持ち、地形を生かして築山や池をこしらえた。
ほかには寺と田畑くらいしかなかった。まったくのんびりとした土地柄だったけれど、そのおもむきは近代に入っても、明治、大正までつづいた。それを昭和に入ってから、たったひとりの男が、
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※本連載は第20回です。最初から読む方はこちら。
大岡昇平は戦後を代表する作家、評論家である。
『野火』『レイテ戦記』のような戦争小説、『武蔵野夫人』のような恋愛小説、『文学における虚と実』のような文芸評論とたいへん広範囲な活動をしたが、しかし子供のころ育った範囲はせまかった。渋谷という同一の地域のなかで、たびたび引っ越しをしたのである。
その回数は計7度……とは、