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絶望から希望をみつけるために

そごう広告に感じる「絶望」

少し前に話題になっていた、そごうの「わたしは、私」という広告があります。
「わたしは、わたし」
https://www.sogo-seibu.jp/watashiwa-watashi/

僕がこの広告で感じたことは、「絶望」です。「パイ投げ」というアクションが、顔面を圧倒的に汚す被害の凄惨さだけでなく、守旧性や全方向性もコンテキストとして含まれていて、とても抗いづらいイメージをもっています。人(男女に関わらず)ってここまでのストレスに晒されると普通は無気力になってしまうよなぁと。僕としては、コピーの後半にある前向きな感覚には、全然繋がりませんでした。

この広告には各方面から、賛否のコメントが寄せられているようです。https://www.google.com/amp/s/youpouch.com/2019/01/08/550727/amp/
僕は本件で「広告」としての意味合いは何?ってところが気になりましたが、考えていくうちに、「人はこんな『絶望』に陥ったとき、どうしたら『回復』して前向きに生きていけるようになるのか」に考えが及びました。

当事者研究の知見から「絶望」の脱し方を学ぶ

そこで、障害や病気の当事者の困りごとを研究対象として解きほぐしていく「当事者研究」に携わる研究者であり、ご自身も脳性麻痺の当事者である熊谷晋一郎さんのsoar記事を頼りにまとめていきたいと思います。

絶望だって、分かち合えば希望に変わる。熊谷晋一郎さんが語る「わたしとあなた」の回復の物語
https://soar-world.com/2018/01/30/conference2017_watashi/

全体通読すると、本件のアンサーとなりうる示唆が随所にちりばめられています。ただし、長文なのでポイントとなる部分を引用してみました。といっても、かなり多いですが。。。

・「わたし」がわたし自身であると実感できる、アイデンティティーを構成する要素は2つある。一つは「身体のアイデンティティ」、もう一つは、わたしは固有の経験を持って生きているという、「歴史としてのアイデンティティ」だ。
・身体にも歴史にも可変性に限界がある。無制限に変わっていけるものではない
・障害からの「回復」の定義は「健常者に近づくこと」であったが、80年代に大きく「回復」の定義が変わり、「障害というものは、皮膚の内側にあるものではない、皮膚の外側にあるものだ」と考えるようになった。
・熊谷さんは「むき出しの身体のままで社会に出てみたい。」と思い、一人暮らしを始めた。一人暮らしでは他者からの指摘はない。強いられた「健常者像」に引っ張られることなく、身体の有限性が否認されないようなライフスタイルを生み出していくという経験ができた。
・親と暮らしている時は、とにかく自分の将来に対して不安しかなかった。しかし、一人暮らしという環境に飛び込んでみると、“無限で抽象的な不安”が、“有限で具体的な課題”に変わった。生活で解決すべき課題は無限でなく、片手でおさまるくらいしかなかった。
・おもらしをするという「絶望」は、誰かと分かち合うと助けてくれる=「希望」に変わった。
・仕事(研修医)では「自分の失敗を誰が払うのか」問題に直面した。気楽なトライアンドエラーはできない。
・失敗を許容する組織文化と、何かが起こった時に失敗の責任を取るというリーダーシップが存在すること。この2つがあれば、乗り切れる。
・自分の身体は変化し、予期しない異変が起きる。理想の自分はまた遠くなる。そんなとき、知り合いの医者に自分語りをしてしまったところ、ふっと異変が収まった。
・障害や痛みなどの困難を意味がないと解釈し、取り去ろうとするとかえって回復を遠ざける。この困難には、なにか自分にとって変化の契機となるメッセージが宿っているのではないか。
・意味を与えるとはどういうことか。それは、「自分の経験した出来事は、くり返し起きている出来事のカテゴリーの一例である」という類似性を見つけること。
・自分の身には1度しか起きていない出来事だから、自分1人だけではカテゴリーを発見できない。そんな時に必要なのが、他者ー「あなた」の存在。
・「あなた」という他者と隣り合い、お互いの共通点や違いを見出すことを通して、はじめて「わたし」の輪郭が浮かび上がってくる。まったく同じではないものの、比較的似た経験をした、困難の「当事者」同士で集まることの価値はそこにある。
・「距離を空けていたままで回復するわけがない。全力で向き合いなさい。相手がびっくりするほど距離を詰めなさい。ただし、みんなでね」
・困難の渦中にいる人と支援者が1対1で近づき過ぎると、薬物に代わる新たな共依存を再生産しかねない。依存先を適度に分散させていくことが必要になる。だから、“全力で”かつ“複数で”向き合うのだ。
・理想と現実のギャップを無理矢理に埋めようとして思い通りにならない自分や相手を理想に近づけようとしないことが重要なんです。現実は理想通りにいかないけれど、仲間と言葉でシェアして、「そんなこともあるよね」と、どうにかやり過ごしていく。そうした時間を重ねるなかで、次第に回復の糸口が見えてくる。
・回復とは、回復し続けること」という言葉があります。「回復」というと、何か一つのゴールがあって、そこに到達することが回復であるとイメージしがちですが、そうではなくて、少しずつ回復していくプロセス自体が回復なんだと、そういう考え方をされているんですね。
・何かたった一つのわかりやすい答えやゴールがあるわけではない。それでも、「わたしたち」はひとりきりではない。お互いの経験を言葉で分かち合って答え合わせをしてみる。それで決してすべてが解決するわけではないけれど、「あなた」と話すだけで、また明日も生きていこうというエネルギーが湧いてくる。きっとその繰り返し。

このストーリー、役に立つ。が、もう少し汎用性を高められないだろうか

これは一つのサクセスストーリーだと思いますが、当事者研究として人の内面もよく分析してあり、とても説得力を感じました。障害に限らず様々な困難を抱えている人が、一歩前へ踏み出していく方法、周囲の人が困難の渦中にいる人を支援する方法として有効だろうと思われます。ただし、もう少し踏み込んで考えると、多くの人に適用するためには、以下のような条件が整っておく必要もあるかと考えました。

1.当事者に絶望的な状況を客観視できる時間的、精神的余裕があるか。
例えば、大規模な自然災害など、予期せず絶望的な状況に陥った場合、絶望にのまれてしまうかも。

2.当事者に絶望に飛び込める「勇」があるか。
たとえ良い結果になると分かっていても、やはり怖いだろうから

3.「勇」をドライブする切実な欲望をもてるか。
熊谷さんの場合は、勝手に推測すると「ありのままの自分で生きたい」だろうか。

4.周囲に安心して自分のことを話せる人がいるか。

特に3と4に関して、今後は積極的に介入していく方法があるかというところが課題になっていくと思われます。この点、國分功一郎さんの「欲望形成支援」のアイデアが関連しそうと思っています。『精神看護』1月号に「國分功一郎×斎藤環 オープンダイアローグと中動態の世界」と題した特集が掲載されていて、早速入手してみました。 https://t.co/nX42AVLNVz

また別の機会に考えをまとめてみたいと思います。

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