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【活動報告/リターン紹介】瀬戸内国際芸術祭ほか(Part3)/リサーチ・取材同行

瀬戸内エリアでの活動レポート第3弾。アートプロジェクトラボのメンバー3人でめぐった女木島・大島・高松の3エリアの様子をお伝えします(後編/前編はこちら

芸術祭をささえる「こえび隊」の朝

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朝の高松港。この日は芸術祭ボランティア・こえび隊の朝礼の見学からスタートした。

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毎朝7時に集合して行われている朝礼。驚いたのは、外国人ボランティアの多さ!なんと半数近くが外国籍なのだそうだ。朝礼も日中2ヶ国語で行われていた。

当日のイベント情報がまとまった「日刊こえび新聞」をもとに朝礼をした後は、全員で「今日も1日頑張ろう」の思いも込めて「えいえいおー!」その後、それぞれの担当する島に渡っていった。

その後ラボのメンバーは、朝から営業している松下製麺所で腹ごしらえ。食べやすい讃岐うどんに加え、うどん出汁でラーメンも食べることのできる、セルフスタイルのお店だ。

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大巻伸嗣「Liminal Air -core-」とこえび隊スタッフ

その後アートプロジェクトラボのメンバーは、朝から営業している松下製麺所で腹ごしらえ。食べやすい讃岐うどんに加え、うどん出汁でラーメンも食べることのできる、セルフスタイルのお店だ。

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近くの栗林公園にも足を伸ばし、しばし観光気分を楽しんだ。



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「隔離の島」だった大島

そしてお昼の船で訪れた島は、大島。個人的にめぐった他の島々を含め、今回の芸術祭の中でもっとも強烈な印象を受けた場所になった。

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大島は長い間「隔離の島」だった。

1907年から国立ハンセン病療養所「青松園」が置かれ、最も多い時期には700人の入所者がここで暮らしていた。しかし入所者に対して医療従事者の数が少なく、一時は症状の軽い入所者が重度の入所者の世話をしたり、島内の労働(農作業や家畜の世話、亡くなった方の火葬まで)を担うことが負担となり症状が悪化してしまうこともあったそうだ。

病気の治療法が見つかり、1996年に隔離政策が撤廃されたが、手足や顔に後遺症が残る病気のため差別が続いたことや、高齢化などが原因で、結局島外に出られないまま生涯を終える人が多かったという。

現在、島に残っているのは50人ほどで、その平均年齢は84歳。病気は完治したため、現在は「患者」ではなく「入所者」と呼ばれており、現在は後遺症や加齢による症状と向き合っている。

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大島に到着して最初に気がつくのは、島のあちこちから流れる音楽。島の施設や電柱に設置されたスピーカーから流れる「盲導鈴」が、潮騒の合間からやわらかく響いてきているのだ。
ハンセン病は治療が遅れると末梢神経が麻痺する病気。入所者の中には視力を失っている方もいて、自分が今どこを歩いているかもわからなくなる。そんなときにも音を頼りに歩けるよう、こうした音を流しているのだそうだ。同じ理由で、島の道路には白線が引いてあり、弱視でも足元の線をたどれば目的地にたどりつけるようになっている。

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穏やかな島に絶えず流れる盲導鈴の音のせいか、なんだか異世界にきたような不思議な感覚を覚えた。

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山道を歩きながら、島に思いを馳せる

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鴻池朋子「リングワンデルング」

大島で最初に見に向かった作品は、鴻池朋子さんの作品「リングワンデルング」。タイトルは“悪天候で方向を見失い、無意識に円を描くように歩くこと”をいう登山用語だ。

鴻池さんは、島の人との対話の中で、島の北端にむかし入所者みずからが切り開いた山道があると知り、その道を歩きながら島に思いを馳せることを作品化することを考えた。昭和8年に切り開かれた約1.5kmの道は、長い年月の間にすっかり竹や草木に覆われていたが、それを再び切り開き人が入れるようにしていった。

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地図に従って進んでいくと、入所者の記憶を辿るテキストや、瀬戸内の絶景、人の暮らした跡がぽつぽつとあらわれる。

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島の東端に位置するこの断崖は「馬の背」とよばれ、東方出身者にとって最も故郷に近い場所だった。
島外に出ることが許されなかった頃、入所者がどんな気持ちでこの場所に立っていたのか? 不自由な体でどんな風にここまで歩いてきたのか? その人はどんな人だったのか? 自分の足で歩くことでより深く考えさせられた。

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さらに道を進んでいくと、山の斜面に白いものが。その先を追っていくと…。

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木々の間から突然巨大な生き物があらわれる!
通称"皮トンビ"とよばれるこの巨大な作品は、雨や風もそのまま受け、徐々に形を変えながら、訪れる人を常に待ち構えている。

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島の歴史や暮らしを辿る

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ハンセン病の歴史や島の暮らしを辿る展示が行われている社会交流会館。

みどころは、1/150スケールの島のジオラマだ。「大島の歴史を後世に残したい」と自治会が声を上げ、こえび隊を中心に制作した。多くの入所者が生活していた昭和30年代の様子を精密に再現した大作で、島の特徴でもある松林もすべて手作り! 宇野や玉野で松作りワークショップも行い、のべ700人が参加したそうだ。

また、同じ建物内ではカフェ・シヨルが営業中(シヨルは方言で「してます」の意)。大島産の果物を使ったドリンクやお菓子を楽しめる。

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大島の土で焼いたうつわ。

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鴻池朋子「物語るテーブルランナー in 大島青松園」

店内で存在感を放つ作品。人の「語り」をかたちにするプロジェクトで、過去には奥能登や秋田でも行われてきたものだ。今回は、療養所の入所者や看護師・介護士の語りをもとに絵を描き、刺繍などでランチョンマットを制作。これはとある入所者が子供の頃に叔父に手をひかれて島に来た日のこと。様々な語りが作品となっていた。

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ツアーと作品を通して知る、生きることと共にある表現

こえび隊による島内ガイドツアーにも参加し、大島の歴史やアート作品について解説してもらった。

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ツアーで最初に向かったのは、島の納骨堂。ハンセン病になると、差別のため故郷のお墓に入れず島に骨を埋めることになった方が多くいた。

また、納骨堂の脇には生まれてこれなかった子供の慰霊碑も。島内で結婚して夫婦になる男女には「子供ができたら中絶する」という条件が課せられており、この世に生まれることができなかった命がいくつもあったそうだ。

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ここは宗教地区の一角。
入所者は、入所するときにかならず何かの宗教に入ることが定められていた。それは本人の心の拠り所を作るためでもあったが、亡くなった時の葬儀方法をあらかじめ決めておくためでもあった。この島で命を終えることが前提とされていたことを思う悲しみがこみあげる…。

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かつて入所者が暮らしていた長屋が並ぶ。このエリアにあるのは、どれも入所者の暮らしや感情をリアルに切り取った作品ばかりだ。

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田島征三「Nさんの人生・大島七十年-木製便器の部屋-」

入所者・Nさん(現在も存命)の人生を語り聞きし、それをもとにつくられた空間。障子や襖に大きく描かれたNさんの言葉が、まっすぐに目に飛び込む。部屋の中は田島さんの力強いタッチと極彩色で当時の様子が再現されており、心に迫るものがあった。

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山川冬樹「海峡の歌/Strait Songs」

大島から対岸の庵治町へ泳いで渡る映像のインスタレーション。海は島と外を隔てる存在だったが、山川さんは両地の間の海峡を泳いで渡りきった記録し、大島と庵治をつなげるための表現をめざした。映像の背後では、大島の歌人の歌を庵治町の子供が読む声が流れている。

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やさしい美術プロジェクト「稀有の触手」

「大島で暮らした人の熱を伝える場所を」という思いのもと作られた場所で、彼らが遺したものを通じて、一人ひとりの暮らしや体温を感じられるようになっている。

長年大島で暮らし、晩年にカメラマンとしての活動を開始した脇林清さんにちなんだ展示。脇林さんは手が不自由であったため、機材を扱うために必要な自助具も自作して写真を撮り続けたという。

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山川冬樹「歩みきたりて」

大島で暮らした歌人・政石蒙の足跡を辿る作品。
終戦後、モンゴル抑留中にハンセン病が発覚し復員後に大島で暮らしはじめた政石さんは、モンゴルの強制収容所で一人隔離された房の中で、草の茎で地面に文字を書きつけてはじめて歌を読んだという。

ここではそんな政石の足跡を巡って、モンゴル、大島、松野(政石蒙の故郷)を旅し、各地で撮影した映像と遺品によるインスタレーションが展示されている。

カメラマンの脇林さん、歌人の政石さん…彼らにフォーカスを当てた展示を見て、生きることと創作することは、どんなときも共にあるものなのだと感じさせられた。それと同時に、大島には、隔離によるつらい悲しい歴史だけでなく、こうやって美しいものを作る人びとの暮らしがあったことを知った。

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島の課題に向き合うこえび隊

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高松港に戻ってから、こえび隊・笹川尚子さんのお話を聞く機会を得た(後日、正式なインタビュー記事を制作予定)。

こえび隊の活動内容は「芸術祭を支える」お手伝いがメイン。こえび隊事務局を担う特定非営利活動法人瀬戸内こえびネットワークは、芸術祭をきっかけに各島で活動を広げている。一方で「島の課題は何か?」を掘り下げるというミッションもあるとのこと。島民の方々と関係を築き、島の課題に向き合いながら、アートに限らず自分たちにどのような活動ができるのか、という視点を持っているという姿勢がとても印象に残った。

芸術祭がまだはじまったばかりの頃は「島を気まぐれに利用しないで」と拒む声もあった。何かしらの近代の爪痕を負っている島もあり、それぞれに課題を抱えている。

アーティストもスタッフも芸術祭に関わる人それぞれが、土地の歴史や産業、そして人と向き合い、対話を重ねてきたことが、芸術祭を育てているのだと強く感じることができた。

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夜はメンバーの橋本が度々訪れているという、高松・瓦町のお店「時宅」にて、EAT&ART TAROさんを囲んでの交流会。瀬戸内ガストロノミーの続編のように、なぜ瀬戸内地域では酢や醤油の醸造が盛んだったか? などの豆知識も教えていただいた。橋本も地縁のある岡山から見た瀬戸内や、これまでの芸術祭について語る。

後半にはお店の常連のお客さんたち達も加わり、芸術祭の感想や瀬戸内の食やアートについて語り明かした。

(前編はこちら

EDIT LOCAL LABORATORY 南裕子

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