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〜COTEN RADIO教育の歴史を聞いて徒然なるままに〜みんな違ってみんないい時代における「教育」ってなんだろうって話

ぼくの大好きなCOTEN RADIOを聞いて、書きたい話。
なんでこんなタイトルにしたのかというときっかけは僕の友達で現在学習塾で働いている友達がこんな話を吐露してた。

学習塾業界の中で、夢や志について作文を書いてもらいその作文を評価する取り組みをしている。ただ、受験のための勉強を教えるだけでなく、夢や志を持つ生徒を育てる取り組みとして素晴らしいと思う一方で、夢や目標の良し悪しを大人が評価することってどうなのか?モヤモヤするとのこと。

あーなんか共感できるし、そもそもいまの時代に求められる「教育」ってなんだろうって思い、COTENRADIOの教育編の話を思い出し、書いてみました。

一応はじめに言っておきますが、COTENRADIOを聞きながら、教育ってなんだろうってふと自分の中で感じたことをつらつら書いているだけの記事です。
専門家でも教育業界の人間でもなく、子供もいない自分が語るのはおこがましい。思考をアウトプットしたいなぁという程度の独り言であり、答えや論争を生みたいわけではないです。
そんな徒然なるままに書いた文章ですが、お付き合い頂けると幸いです。
ご容赦くださいませ!


「教育」とは社会ニーズを反映する鏡

教育を考える上で,「教育コストを誰が負担したか」を考えるのは大切。教育は,とてもコストがかかるし、社会の中でのニーズに合わせて教育の形も変わっている。そして、主にコストを負担するのは政府である。

そもそも学校教育という概念もここ200年ほどの近代で生まれた。
なぜなら資本主義、工業化時代では、生産できる人材が多ければ多いほど国が豊かになるから。
実は古代の社会、古代のメソポタミア文明のシュメール地方で文字が普及し、国を統治するのに読み書き計算の座学となる教育があった。
しかし、中世は農業が広がりむしろそうした教育は必要なくなり、農業OJTが優先され、政府は教育コストをかけなくなった。農耕を中心とする社会でニーズがなくなったからだ。
COTENRADIOの話でそもそも中世の封建社会では子供という概念自体なかったのはメタ認知!

「優秀」も社会ニーズを規定する鏡

また、社会ニーズの「優秀」という価値観は社会が規定している。
明治時代から約150年の日本の近代教育において、「学力」における「優秀」が特に求められ続けている。受験における偏差値もこの学力が基本基準である。
また、アメリカの進歩主義的教育において「社会貢献度」の評価軸を合わせているのも社会ニーズから規定されている。今日本の教育でもこの「社会貢献度」に対しての社会ニーズも増してきているだろう。
COTENRADIOでもあったけど、社会が変わってきて、教育が変わってくる。

今の社会ニーズにおける教育って何?

ただ、社会ニーズは「優秀」さを求められているのか?
今は変換点だと思い、スマホとネットがコミュニケーション伝達が圧倒的に早くなり、SNS、AIで情報も民主化されている。発信者も圧倒的に増えて社会は変わってきた。

けど、従来の学習を完全否定するのではない。
COTENRADIOにも出てきたけど、国家のニーズと税金を使って教育するにあたって、ランカスター教育のようにクラス分け、機械的な詰め込み教育が教育の効率化を図ってきた歴史が今もなごり続いているけど、そのスタイルは否定するものでなく、尊敬に値するものでもある。

「学力」における「優秀」さは否定されるものではないが、新たな社会ニーズとして変化が激しく、多様化している、個別化している社会で同一の規定で図ってよいのか?
みんな違ってみんないい社会に求められている社会ニーズは変わってきており、教育も必要なのでは?

そして、個別化している時代に国や市場経済自体がコストのかかる教育や教育サービスに投資できるのか?経済合理性は働くのか?

もしも会社の研修を例えるなら、会社の利益に貢献するための考え方やスキルを身につけるのであれば研修費用出して投資するけど、個人の幸せや個人が輝くスキルに投資してくれることってお金出せなさそう。

話を戻して

社会貢献性の高い人材を育成するため夢や目標を評価することは、社会ニーズにおける教育として理屈として正しいと思う。だからこそ、企業がコストを割いて行うことに意味があると思う。
けど、社会の変化の中で、社会のニーズの個別化している中で、みんなが「この人は社会貢献性が高い」って評価することに意味があるのか?

話は広がるが、もはや国家や社会のニーズから生まれる教育はもしかしたら一部のニーズを満たせないものになってきているかも。その満たせないニーズが増えているし、国家の教育では社会ニーズが満たせないし、投資が追いつかなくなるのでは?

そう考えると個別に学ぶことを自分たちで投資して学ぶことが大事だし、国家や社会に頼らず、個人が学びにリソースを投資していかないとみんな違ってみんないい世の中に必要な教育が受けられないのかも!なんてことを徒然なるままに思った。


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