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私の子育て観が変わった時、私自身も一回り変われた出来事

娘12歳
息子8歳

子供を育てるという子育てとは子供の世話とは全く別物だと多くの親は感じている事と思います。

メリットデメリットありますが、私自身がど田舎の父子家庭で育ち、中卒でありましたから、恵まれていない環境で育ったという事実は否めません。
つまりは眼鏡も買えないほどの貧しさだった訳です。。。

それは何を意味するかといえば知識に乏しく、就職も困難を極め当たり前に暮らしていくという事が非常にハードルが高い

貧乏が私を強くした面もありますが貧乏が私を苦しめた事もある訳です。

貧乏や病気の苦労は、知らなければ知らない方がいい。

苦労はした方がいい、という大人もいるかもしれませんが、個人が受け止めきれない以上の究極的な苦労は何も生み出さない、辛いだけであると私は強く感じています。

話が逸れましたが、私は非常に人生には苦労し辛かった為、我が子に限らず全ての子供には私のような辛さを味わって欲しくないと強く思いますので、努力でなんとかなる環境ならば、頑張る方がいい。

頑張れば自分を好きになれるし、人の役に立つ事もできる。

人からありがとうと言われたらこれ以上の喜びはないという価値観だったので、一生懸命に生きる大切さや頑張る事の尊さを感じれるように毎日毎日学習する習慣をまず我が子に身につけさせようと必死でした。

そんな中、次々と私は病気になり2回の手術から歩けなくなり、勉強や子育てはおろか日常生活もままならない。

ふと振り返ってみると子育て、楽しめる余裕がないほど頑張る母としての自分は好きだったが、これで間違いないとこれからも言い続ける事ができるのだろうか。❓

早い話、私の子育てというのは自己犠牲の子育てであった訳である。
子供のため、という自分の為だと思っていたのが、自分の為ではなかったのだ。

一気に今までやってきた事に嫌気が刺してきた。

私が頑張ってやってきた子育てというのは第二の自分を生み出さない為だと信じてきたが、子供らがもし私のような経験をしていたら案外とメリットの方を活かせた生き方をしているかもしれないと思った。

どういう事かといえば中卒で早くに親を亡くし苦労し辛かったのは自分だけであって、もしかしたら他の人が同じ経験をしたら、それを活かした生き方をしているかもしれないという事。

そう考えてみると自分が正しいと信じた子育て観は、もう少し視野を広げる必要があると思ったのだ。

そうは言っても子供らは何が辛くてどこまでの逆境ならバネにできるのか

個人が持つ力というのは、親の私でもわからないし、決めつけてもいけない。

傷ついて欲しくないと願うあまり、失敗する程度もある程度のところまでしか選択域は確保しない、

そんな子育てがアホくさくなった。

あなたも一度や二度、失敗した経験はあるだろう。

だが、恵まれた環境で育った中での失敗は受験に落ちたとか、試験や就職に失敗したとか誰しも経験した失敗なのだ。

失敗させる権利をある程度、親が慮り用意された失敗ともいえる気がする。

私がまずいのは私自身が失敗した事がないのである。
つまりチャレンジすらした事がないのだ。

私自身がもう少し自分の人生を自分のものとして、自分が思う理想の母を目指すのはいい事だけれど、あくまで自分の為でなくてはいけないと

そう感じた

歩けなくなり、日常生活も、できなくなりいずれ死ぬのか

目標に向かい頑張るのもいいけど今を生きる事の大切さにも気付けた気がする。


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