« necropoetica »補遺 ――良経論の余白に(未発表、2014年5月ごろの文章)

7年後からのまえがき

 この文章は『率』ホームページ上に連載していた「月刊」の「5月号」になるはずだったようです。何かの都合で掲載されなかったのでしょう。先にnoteに上げた「死學創造(ネクロポエティカ)」と関連の深い文章なので、もったいないしここに公開しておきます。この文章では藤原良経について塚本邦雄に加えて萩原朔太郎、中島敦のそれぞれの受容ぶりを見たうえで、マラルメの批評をわざわざ原文で引きながら「詩歌の音楽性」について青臭い議論をしています。ここでの主張がいまの自分の主張とそのまま重なるわけではないのですが、まあ青春の記念碑として見逃してやってください。

本文

 前の「ネクロポエティカ」(『率』5号)で、僕は満足いくものが書けないまま終わってしまった。そのことを自己分析してみるに、あの評論をつまらなくしている最大の要因とも言うべき、退屈極まりない――と自分では思われる――実証研究の真似事じみた長い前口上が畢竟、二つの詩人論を通じて遠まわしに自己を語ろうとしていた僕自身のためらいと罪悪感によるものだった、という事実が見えてくる。塚本の論じる良経、サルトルの論じるマラルメ。ここでこの二人の詩人は、近しい存在の死、それにまつわる性的なニュアンス、そして喪の作業を完遂しえぬまま降りかかる社会的責任の重み、といった諸要素を通じてその実存を描き出されていた。そうした二つの詩人像を擦り合わせて論じることは結局のところ、人にそれと悟られぬよう自己に訪れた同様の〈危機〉を語ることで、歌人として、それ以上に人間として生き延びようとする僕の無様なもがきに過ぎなかったと断言していい。もちろん良経とマラルメという二人の詩人の読書体験は、彼らの獲得しえた「末期の眼」「死者の眼」を僕自身の歌の中にも持ちこむことで「砂糖と亡霊」や「忘却のための試論」といった連作に結実していったのであるが、その意味で「ネクロポエティカ」というのは僕自身の詩学を言語化するために書かれた迂遠な自作自解だったとも言える。

 All art constantly aspires towards the condition of music.(なべて芸術は音楽の状態に憧れつづける)といえばウォルター・ペイター『ルネッサンス』のあまりに有名な言挙げであるけれども、芸術の純粋な形態としての音楽という観念は後代の詩人にも持続的な影響をもたらし続けた。僕は「ネクロポエティカ」を書く過程で『萩原朔太郎全集』に二篇、『中島敦全集』に一篇、藤原良経と新古今集を扱った評論を見出したが、そのいずれもが詩歌の音楽性に言及したものだったのは興味深い事実ではある。当時フランスでヴァレリーのアカデミー会員立候補を契機として起こった「純粋詩」論争が、マラルメ~ヴァレリーの系譜を重んじるかたちで仏文学研究が発展した日本の読書界にもリアルタイムで伝えられ、第二次大戦前の〈危機〉の時代にあって「詩の音楽性」をめぐる議論が盛んになったことも、恐らくはこれに関係しているのだが。

 全集10巻に収められた「新古今集への歌壇的潮流とその批判」で朔太郎はまず、万葉回帰を主張する当時の歌壇、とりわけアララギ派がむしろ主知主義的な、いわば「古今集の時代」をむしろ作りだしてしまったことを指摘する。万葉はむしろ明治期の浪漫主義に関係づけられ、それが古今集に対応するアララギ派の時代を経て、歌壇的には白秋や川田順に象徴されるような新古今の時代へと移行していくというのが彼の描く大まかな見取り図である。朔太郎は新古今時代と、彼がこの一文を草した時代とのあいだに「救ひがたいデカダンスの虚無」という共通項を見出す。「現代の青年やインテリゲンチア」が好んで聴く「町の卑猥な流行歌」のその「メロヂイそのものにさへ、時代の絶望的な哀傷が切々として居る」と感じ取った朔太郎は、その絶望の表現を「卑猥なエロチシズムへの惑溺と、その日その日の現実を忘れるナンセンスの笑い」に見ている。彼はさらに「この時代的のデカダンスは、それ自ら新古今集のデカダンスと共通して居る」と続け、ここで良経の一首を引く。

幾度われ浪にしをれて貴船川袖に玉ちる物思ひけむ

 この朔太郎による引用は甚だ不正確である。この不正確さは底本の違いとは関係ないもので、恐らくこれは記憶を頼りに書かれたのだろう。事実、のちに書かれたもう一つの良経論「純粋詩としての新古今集」で彼はより正しく引用している。

幾夜われ浪にしをれて貴船川袖に玉散る物思ふらむ

 ともあれ、新古今集に採られたこの一首を評して朔太郎は言う。

「そのいはゆる幽玄体の本質が、いかに果敢なく力なく、暮春の空に消える煙のやうに、艶にして悩ましいデカダンスの色気であるかを知るであらう」。

この時代に即したデカダンスとしての新古今集に範を仰ぐ歌人たち、北原白秋や川田順は「現歌壇のアララギ的レアリズムが没落した次の時代で、おのづから歌壇のジャーナリズム的帝王者になるであらう」とまで彼は言葉を続ける。朔太郎は新古今集の特徴をフォルマリズムに見る点では彼らと意見を同じくするが、そこに「空間上に観念される幾何学的の形式主義でなく、もつぱら時間上に観念される持続的の形式主義、即ち一言で言へば『音楽的フォルマリズム』なのである」と注文をつけ、そのうえで彼は川田順の作品には「新古今的優美の音楽性が欠乏」しているとし、北原白秋をより上位に置く。時間的、持続的芸術としての音楽を優位に置く感覚はヴァレリーのみならず恐らくは当時日本でも流行を見たベルクソンの思想に拠るものだろうが、ともあれ朔太郎の議論はこのあと延々と、抽象的かつ観念的な詩歌の音楽性をめぐる議論に終始することになる。

 僕は詩歌の音楽性ということをどこまで批評が論じうるかという点については懐疑的である。それはともすれば一種の精神論に帰着してしまったり、単なる個人的クレドの表白に過ぎなかったりすることになるだろう。朔太郎は掛詞や縁語といった技法を新古今の音楽性の根拠として挙げ、

「実にこの歌集の場合に於ては音楽が即内容であり、言葉の奏するメロヂイそのものが、それ自ら幽玄体の内容となり、生理的のエロチシズムやデカダンスとなつてるのである。故に新古今からその音楽美を除いてしまへば、そして単に言葉のミーンズだけを読むとすれば、たいてい皆ナンセンスの馬鹿馬鹿しい妄語にすぎなくなる」

とまで書くが、詳細な音韻やリズムの分析などは勿論試みていない。そうした朔太郎がいくら「現時の短歌の大部分は、単に三十一音字の定形だけを具へたところの、そしてしかも実質上には、何の韻文的音楽性もないところの、奇怪な似而非フォルマリズムの『散文』である」と強い調子で批判してみせても、どうも空疎なスローガンにしか聞こえない。確かにそうしたつまらない身辺雑詠が現代もなお溢れかえっていることは認めざるをえないにしても、逆にそうした下らない歌をもてはやす評者もまた「しらべ」とか「音楽性」を金科玉条のごとく持ち出してはいないか。詩歌の音楽性が実作者として研究する価値のある問題だということは勿論だが、それを個人的な創作の場を離れて批評の道具として用いようとしても不毛で生産性の乏しい結果に終わるだけだ、というのが僕個人の実感である。

 先に挙げた「純粋詩としての新古今集」でも朔太郎は同じ「貴船川」の歌を取り上げているが、その評言は次のようなものだった。

「いかに読者は、貴船川の歌の美しさを表現し得るか。(…)しかもその悲しさと美しさは、これを思想に表現するの言葉を持たない。なぜなら此等の詩には、普通に言ふやうな概念での、『意味』といふものが無いからである。文学上に言はれる『意味』といふことは、すべて皆『素材』に属してゐる。然るに此等の歌には、初めから素材が除去されてゐるのであるから、したがつて、また意味があり得ないのである。『意味の無い詩こそ、この世で最上の詩である。』とヴァレリイが言ふことの真理は、僕等日本人にとつては、新古今の歌をよんでのみ、初めて理解できるのである」。

 純粋詩論争なる、実際のところヴァレリーのアカデミー立候補というフランスの知的階級においてあくまで政治的な意図のもと引き起こされた眉唾ものの論争を、当時の日本の文学者たちがやたらと真面目に受け止めてしまった事情を現在の僕は虚しい気持ちで眺めることしかできない。ここでも朔太郎は「新古今集では、音楽に於ける如く、内容と形式とが、全く一の不離のものになつてる」と音楽の比喩を持ち出して新古今をフォルマリズムの芸術と位置付けるのであるけれど、その「貴船川の歌」の音楽性の言語化を最初から放棄してしまっている以上その言葉もまた空疎にしか響かない。

 同じ「貴船川」の歌を、塚本邦雄もまた新古今集中に採られた良経の作のうち最上に置いている。彼は音楽性について『雪月花』でもう少し詳細に、

「『玉散る』は恋の涙の玉を散らすことと同時に、悲しみのあまり魂散ること、すなはち死ぬばかり思ひ悩むことである。『貴船川』の『貴』は勿論『波にしをれて・来』に通ずる」

と掛詞の分析を試みたうえで、

「一首の調べはあたかも波に乗り、岩に煩ひつつ走る船のやうな不思議な速度とたゆたひがある」

と結論付ける。『和歌文学大系60 秋篠月清集/明恵上人歌集』の註釈を見ても、この歌の解釈は塚本のそれとほぼ同じであるから、塚本にしては穏当な解釈と言っていいかも知れない。朔太郎が漠然と「縁語と掛詞」と言った通り、この歌では「川」「波」「玉」が縁語で、「貴船川」の「き」音は「来」との掛詞になっている。また「玉散る」の「たま」という音には波の水滴と涙、それに魂という三つのイメージを重ねられている。
 ここまで検討して初めて、僕はこの歌の音楽性という話にようやく入り込むことができる。

幾夜われ浪にしをれて貴船川袖に玉散る物思ふらむ

 縁語がすべて液体に関するもので統一されているため、一首のなかで読者はイメージの錯綜に迷わされることはなく、視覚的な情景喚起にとらわれず、それこそ水のように流れる歌の音韻を追うことに集中できる。この歌の音楽性の一つの眼目というべき「波にしをれて貴船川」の掛詞は、なるほど朔太郎が「卑猥な流行歌」に比したように、西條八十などを思い出させるような俗謡風の調子を持っている。ここで音の切れ目と意味の切れ目とが一文字分ずれるところを、塚本のように「波に乗り、岩に煩ひつつ走る船」に喩えてもいいだろう。卑猥と言えば、歌枕にことよせた恋愛感情の吐露、それも知的に構築され誇張された恋愛感情というのだから、内容も空疎にして卑猥である。「タマ」という二音が、恋愛成就の祈願に関係づけられる貴船川の波しぶきの「玉」から、叶わぬ恋を嘆いて流す涙の「玉」、そして恋愛の苦痛から死を願う「魂」、と次々と変奏されるのも音楽性と言ってもいいかも知れない。

 中島敦の「新古今集と藤原良経」は東大国文科に提出されたレポートの下書きとみられているが、彼もまたそれ以前の勅撰集と比較して新古今時代に重視されたのは調子の「はり」ではなかったか、と論を説き起こしている。朔太郎とさして変わらぬ時代に書かれたこのレポートでしかし中島敦は朔太郎が音楽的フォルマリズムと礼讃した内容の空疎さを「作品の類型化。個性の没却」と批判し、デカダン的風潮を後鳥羽上皇のディレッタンティズムに帰する。そうした「一般の雰囲気に歪められた才能の一つ」として彼は藤原良経の歌を引く。新古今時代にむしろ万葉の影響を見る中島敦は良経を評して「客観的な自然描写の歌に彼らしい気品のあるすぐれたものが多い」とし、他の勅撰集に引かれた歌に「新古今には見られない素直な自然観照の境地」や「彼の感覚の穏やかな清新さと、のびのびした自然観」を見て取っている。しかし万葉調うんぬんは別にして考えれば、新古今入選歌の多くを高く買わない中島敦の審美眼は、塚本邦雄のそれとそう遠くない。実際、中島敦が『新古今』から何首か引いて見せる良経の歌のうち、

いざり火の昔の光ほの見えてあしやの里にとぶほたるかな
うちしめりあやめぞかをる時鳥なくや五月の雨のゆふぐれ

といった歌は塚本『雪月花』の選と被っている。新古今以後の勅撰集からの引用も、

はるかなる峰の雲間の梢までさびしき色の冬は来にけり
朝日さす氷の上のうす煙まだ晴れやらぬ淀の川岸

など中島敦の審美眼の確かさを示すような歌が多く、そのうち、

雨晴るる軒のしづくにかげ見えてあやめにすがる夏の夜の月

という風雅集の一首は塚本もやはり『雪月花』で高く評価している。とはいえいずれの歌も、塚本は決して「客観描写」や「素直な自然観照」「のびのびした自然観」に還元しようとしない。

「いざり火の」一首を塚本はあくまで伊勢物語中の本歌とのあいだに取り結ぶインターテクスチュアリティを重視して「『昔』一語にもそれだけの背景はある」と読みだして、「伊勢を二重写しにすることによつて読者の心は幻の世界に誘はれる」と評する。「うちしめり」でも塚本は古今集の本歌を踏まえつつ、この歌の二句切れが調子のうえでは断たれずに意味の上では小休止をするという錯綜を起こしていることに着目し、この歌が「決して単純な客観写生の産物などではない」と断言している。「雨晴るる」にしても塚本は三句目までを「ここまでならば純粋客観写実の世界」としつつ、「だが良経の歌は第四句を『菖蒲にすがる』で主観、幻想の世界に一変させた」と結論付ける。同じ歌を秀歌として取り上げても、塚本の眼に映るのは中島敦の言うような自然主義的、写生尊重の歌人の姿ではなく、あくまで繊細な技巧を駆使して読者を夢幻境へと誘う「詩人」の姿である。
 そのとき塚本の批評の支えとなったのがやはり一首ごとの音楽性の分析であった。たとえば一首目に塚本は限られた字数のなかで、

「第一句終りの『の』、上句終りの『て』共に微妙な助詞の用法で、この歌の節となり、低い囁きのやうな調べを支へてゐる。『いさり火』『蘆屋』、『ほの見えて』『螢』と呼応する音韻も好ましい」

とまで詳細な音韻面の分析を加えている。二首目については先に指摘した二句切れが引き起こす音韻と内容との微妙な齟齬への着目以外にも、限られた字数のなかで「I音A音U音O音を二つ以上連ねて間遠に響かせてゐる」と母音の交響にまでも言及してみせる。さらに「紅葉非在」(『夕暮の諧調』所収)ではこの「不条理とも言ひたい二句切の呼応」を「この作品の点睛」と呼び、このことに「先人は殆ど言及してゐない」ことを不満がっている。この「卒然と読み下せば、必ず時鳥で切つてしまふ懼れのあるこの奇妙で秀抜なコンポジション」という聴覚面での情報の錯綜がそのまま視覚に転じられ、「遠近法の、重なりあひつつ遠ざかる世界」を形成することに注意せず、ただ「卒然と読めば、『うちしめり』に『雨』、『あやめ』に『時鳥』に『五月』といふ、くどいまでの念押しと季の重りは、嘔吐を催すばかりだ」とまで断じるのである。

 とかく、詩歌の音楽性という話はやかましい。塚本ぐらい音韻が作品の意味内容の読解にいかなる影響を及ぼすかという技術的な分析を加えてくれれば、まだどうにか理解の糸をたぐることもできよう。それでも彼のハイトーンな礼讃や文学館の吐露にはしばしばついて行きかねるところがあるのだ。それが最初の朔太郎のように観念論の空中戦に終始してしまっては、音楽的であればそれで即芸術というふうには、とうてい承服しかねるのである。まして朔太郎の弄したような論理はその「音楽性」がテクストのいかなる細部に由来するのか説得的に示されなければ、却って彼が「単に三十一音字の定形だけを具へたところの、そしてしかも実質上には、何の韻文的音楽性もないところの、奇怪な似而非フォルマリズムの『散文』」と切り捨てたはずの内容空疎な歌、身辺雑詠を持ちあげるための道具に堕してしまいかねない。実作者として音楽性を考慮しないのは問題外であるが、短歌の批評にあって音楽性を云々するのはあまりに手前勝手な議論に陥りがちであって、慎まねばならないのではないか、などと僕は弱気に思うのである。

 確かに音楽性は重要だが、それと同じくらい視覚情報としての表記も重要であるし、空疎ならざる内容を盛り込むこともまた重要である。そんな当たり前のようなことを改めて僕は最近、辞書を引き引きマラルメの散文集『ディヴァガシオン』を読むうちに考えるようになった。「音楽と文芸との古い区別は忘れよう(oublions la vieille distinction, entre la Musique et les Lettres)」(『音楽と文芸』)とか、「音楽と文芸とは確かに、私が観念と呼ぶ唯一の現象の、代わるがわるあらわれ、こちらでは闇へと広がっていくのに、あちらでは光り輝くといったような両面のことである(la Musique et les Lettres sont la face alternative ici éclargie vers l’obscur ; scintillante là, avec certitude, d’un phénomène, le seul, je l’appelai l’Idée)」(同上)とか、マラルメは音楽と文芸の同質性を言う。そこでは彼が当時入れ込んでいたワーグナーの「総合芸術」としての楽劇が想定されているのだが、そうした音楽の優位を詩歌へとふたたび奪取しようというのがマラルメの真意である。
 実際、音楽から詩歌へと「我々の冨を再奪還する(de reprendre notre bien)」(『詩の危機』)と言うときマラルメが想定している音楽は、最初に引いたペイターの言葉のような「純粋芸術としての音楽」でも、朔太郎が言うような内容の空疎さによって成立するような音楽性でもない。歌詞という内容をもたない器楽への憧れとは別な「富の再奪還」の在り方は、たとえば次のようなマラルメの言葉に見出せるように思う。

「音楽という言葉をギリシャ語の意味で用いなさい。それが根底のところで意味するのは諸関係のあいだのリズムとか観念とかいったことです。それこそ、一般の人々が思うような交響曲という表現よりも神的なものなのですから(Employez Musique dans le sens grec, au fond signifiant Idée ou rythme entre des rapports ; là, plus divine que l’expression publique et symphonique)」(エドモン・ゴス宛て書簡、1893年1月10日)。

 文芸に携わる者が、内容なき形式すなわち器楽としての音楽に憧れるあまり、自身の詩句を無内容にすることばかりに熱中して、より根源的で重要だったはずの「観念」を忘れ去ることをマラルメは戒めているのだ。実際、音楽性や「しらべ」ばかりに依拠してつまらない歌、観念なき歌、内容空疎な歌を過剰に礼讃するような批評に出くわしたとき、僕は彼が苛立たしげにこう言っていたのを思い出す。

「私は知っている、人々は神秘の在処を音楽に限定したがるということを。書きものにも神秘はあるはずだというのに(Je sais, on veut à la Musique, limiter le Mystère ; quand l’écrit u prétend.)」(『文芸における神秘』)

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