死學創造(ネクロポエティカ)――塚本邦雄と藤原良経(初出『率』5号)
7年後からのまえがき
この文章は2014年刊行の同人誌『率』5号に掲載されたものを、noteの形式に合わせていささか改稿したものです。「インターテクストの短歌史」という特集企画を自ら立てて、自分では塚本邦雄の藤原良経受容について、文献考証のまねごとのような手つきも交えて書いたものでした。この号には他にもう1篇、寺山修司の夢野久作「猟奇歌」受容についての短い文章も書いていますが、これは原稿が足りないと言われて慌てて書いた間に合わせのものなのでnoteにも載せないことにします。博士課程1年目の大学院生として論文を書きながら、同時進行で短歌に関してこういう長い文章を大量に書いていたことを思うと、1年間に1本の論文も評論も書けないでいる今の自分からは想像も付かないことのように感じられます。末尾の日付を見ると25歳の誕生日を目前にした時期に書かれたもののようで、若さゆえの気負いや衒いがそこかしこに覗かれて恥ずかしい限りですが、恥を忍んでここに改めて公開しようと思います。
Prologue
『新古今集新論』(岩波セミナーブックス、1995年)で、塚本邦雄は言う。「私の最愛の歌人は、定家にあらず、良経です。冨山房「百科文庫」の『清唱千首』にも、定家の三十六首に対して良経は四十首採っています。これが千首中の最高採用数です」(153頁)。二年前、註釈書を頼りにマラルメと定家を少しずつ読んでいた僕はこの偏愛に惹かれ、藤原良経をすこし体系的に読んでみようと思い立った。しかし良経の家集『秋篠月清集』には定家の『拾遺愚草』や西行の『山家集』、実朝の『金塊和歌集』と違って当時まだ校註書がなく、手に取るべき研究書もほとんどなかった。すぐに読める文献は塚本の手になる『日本詩人選 藤原俊成・藤原良経』(筑摩書房、1975年)や『雪月花 絶唱交響』(読売新聞社、1976年)、そして塚本自身も挙げている詞華集『清唱千首』(冨山房百科文庫、1983年)といったものぐらいである。
そうした塚本の良経に関する著書を読みはじめたころ、教育学部の国文科にいた詩人の文月悠光に「授業で聞いたんですけど、塚本の良経の読みは間違ってるらしいですよ」と教えられてギョッとした。塚本の『藤原良経』で重要な扱いを受けている一首、
《寂しさや思ひよわると月見ればこころの底ぞ秋深くなる》(119頁)
の「こころの底」という表現。この表現を塚本は「心底の秋」と章題にまで採って絶賛するのであるが、これが実は読み違いで、実際は「そこ」ではなく「そら」なのだという。
丁度そのころ、アマゾンで四万円を超える値がついていた青木賢豪『藤原良経歌集とその研究』(笠間書院、1976年)を古書市で2800円という破格の値段で入手できたので、さっそく本文を確認してみた。なるほど、
《さひしさやおもひよはると月見れは 心のそらそ秋ふかくなる》
とある(25頁)。『秋篠月清集』の伝本には大別して「教家本」と「定家本」の二種類があるが、この本の翻刻は定家本に拠っているようだ。塚本が主として拠っていたと思われる国歌大観(『新古今集新論』23頁に「角川の国歌大観」を見ているという主旨の発言がある)をひもといてみても、この部分の表記は「そら」である(『新編 国歌大観』角川書店、1985年、634頁)。
この些細な疑問から出発して、僕は『塚本邦雄全集』(ゆまに書房、1998~2001年)をはじめ塚本が良経について書いている文章をしらみつぶしに探し、その読み「間違い」がどこに起因するのか、そもそも単なる誤読といって片付けてしまっていいのか、修士論文執筆のかたわら少しずつ調べはじめた。幸いにして昨年末、待望の校註本である谷知子・平野多恵『和歌文学大系 秋篠月清集・明恵上人歌集』(明治書院、2013年)が刊行された。自ら「最愛の歌人」と言い切る良経を塚本邦雄はいかに受容したのか。本稿ではこの問題を、主にその「誤読」に着目して考えてみたい。第一部ではある一首の歌におけるほんの一字の違いについて、第二部では良経の伝記を語るうえで重要な一つのエピソードについて検証する。そして第三部では塚本が良経の伝記をつづるにあたって「創作」している部分を、酷似した点をもつサルトルのマラルメ論と比較しながら取り上げて、最終的にはこれらを塚本が良経からいかなる「死の詩学(necropoetica)」を引き出したかという主題のもとに総括する。
Première partie
まずはこの、
《寂しさや思ひよわると月見ればこころの底ぞ秋深くなる》
から始めよう。この歌が含まれる「花月百首」は建久元(1190)年に詠まれた最初期の作品で、良経はこのとき21~22歳。『秋篠月清集』でも最初に配されている百首歌である。『日本詩人選』に限らず、塚本はこの歌をしばしば引用して若き良経の天才ぶりに惜しみない賛辞をおくる。そしてそこでは全て「そら」とあるべきところは「そこ」とされ、またこの「こころの底」という表現を「花月百首」中の白眉として常に取り上げている。
たとえば塚本の著書というよりはあくまで読書界一般に向けた古典和歌のアンソロジーというべき『清唱千首』にもこの歌は当然のように採られているが、その解説にはこうある。
「第四句、「心の底ぞ」の沈痛な響は、八世紀後の現代人にも衝撃を与へるだらう。月に寄せる歎きは、古来何万何千と例歌を挙げるにこと欠かぬが、これほどの深みに達した作は他にあるまい」(194頁)。
しかし最新の研究成果を反映した『和歌文学大系』によると、もちろんこの一首の表記は、
《さびしさや思ひよわると月見れば心の空ぞ秋深くなる》
と「そら」説を採っており、註釈には「心の空」という表現について「自らの心を空に喩えた表現」とある(一五頁)。『和歌文学大系』によると良経における「こころのそこ」という表現の初出は、建久四(一一九三)年から翌年にかけて成立したとされる六百番歌合の出詠歌を収めた「歌合百首」中の、
《このごろの心の底をよそに見ば鹿鳴く野辺の秋の夕暮》
であり、その語釈は「新古今歌人が愛好したことば。妻問いする鹿に私の姿を重ねている」となっている(65頁)。
新古今歌人たちの一つの頂点がこの六百番歌合だったとすれば、そこに到って初めて良経も「心の底」という新古今ふうの表現を使うようになった、ということで理屈は通る。実際、良経は「花月百首」と六百番歌合のあいだ、建久二(1191)年の「十題百首」において、
《秋はなほ吹き過ぎにける風までも心の空にあまるものかは》
と詠んでおり(『和歌文学大系』36頁)、やはり「そこ」は六百番歌合の前後に獲得された新しい表現であって、それ以前の作品に見られるのは「そら」だと考えた方が自然である。実際、この歌については塚本も、
《あきはなほ吹きすぎにける風までも心の空にあまるものかは》
としているのである(『日本詩人選』129頁)。同様に、
《この頃の心の底をよそに見ば鹿鳴く野辺の秋の夕暮》
は塚本の『日本詩人選』(136頁)でも『雪月花』でもこの通りに引用されており、またもこの表現は、
これまた叔父慈円を思はせるやうな重い言葉だが、「底」はあくまでも良経の才、才を超えた呻きでもあらう。普通の上手なら「心をよそに見て」風にすらりと歌ひ流すところであり、それでも佳作として一応通らう。(82~83頁)
と高く評価されている。いずれにせよ、花月百首の一例を除けば、塚本は「そら」と「そこ」をきちんと読み分けていたことになる。彼がなにかの写本を底本としていたのか(関西地方でもいくつかの大学に『秋篠月清集』の写本が所蔵されている)、それとも活字本を使っていたのかは定かでないが、少なくとも単なる誤読ではなさそうではある。
塚本が使用していた底本は定かではないが、活字本に関してはある程度まで推測が可能である。先に触れたように、良経の家集『秋篠月清集』には大別して「定家本」と「教家本」の二種類の伝本があるのだが、『和歌文学大系』をはじめ現行の多くの研究書や翻刻は前者の定家本に拠って本文を校訂している。しかしこの定家本に優位をみとめる傾向はちょうど塚本『日本詩人選』刊行の前後、すなわち1970年代中葉に始まったもので、それ以前は教家本のほうが原型に近いものとして優位に置かれていたことがわかる(青木賢豪『藤原良経全歌集とその研究』13頁、片山亨『校本秋篠月清集とその研究』笠間書院、1976年、385頁)。これが塚本『日本詩人選』の翌年に相次いで刊行された青木・片山それぞれによる翻刻ではともに定家本が優位に置かれる。ことに青木『藤原良経全歌集とその研究』は定家本のみの翻刻であり、片山『校本秋篠月清集とその研究』は双方を翻刻した分厚いものだが、詳細な文献研究のなかで従来の教家本優位の認識を批判し、定家本の優位を説いている(587~593頁)。こと『日本詩人選』に関していえば、はからずも塚本は『秋篠月清集』研究の転換期にこの著書を出版することになったということができる。そしてこの偶然が「そら」「そこ」問題を引き起こしたのである。
塚本が良経論を執筆していた当時はいまだ『秋篠月清集』の定本としては教家本が優位にあり、恐らく当時の塚本の最大の参照項だったであろう『続国歌大観』(国歌大観刊行会、1925~1926年)の本文は教家本に拠っているほか、非売品ながら最も手頃な翻刻本であった松沢智里『古典文庫 秋篠月清集』(古典文庫、1956年)も教家本のなかでも状態が良好な日本大学図書館所蔵本を底本としている。そして『続国歌大観』では、
《寂しさや思ひよわると月見れば心の底ぞ秋深くなる》(18頁)
『古典文庫』では
《さひしさやおもひよはると月みれは心のそこそ秋ふかくなる》(10頁)
と、いずれも「そこ」となっているのである。さらに片山『校本秋篠月清集とその研究』を参照すると、定家本では「そら」(16頁)、教家本では「底」(158頁)となっており、巻末の「本文和歌校異一覧」でも定家本(天理大学図書館本)と教家本(日大本・架蔵明応二年奥書本・河野記念文化館本)計四冊の異同が示されているが、定家本が「心のそらそ」なのに対して、教家本は「心のそこそ」(日大本)・「こゝろの底そ」(架蔵本)・「心の底そ」(河野本)といずれも「そこ」と表記していることがわかる(699頁)。塚本が『日本詩人選』所収の良経論の執筆段階で参照しえた『秋篠月清集』翻刻はいずれも教家本に拠るものであり、そしてこの一首に関して教家本では「こころのそこ」という表現が用いられていた。それゆえ塚本の「心の底」という表現へのこだわりは、いまのところ誤読というよりは単に資料面での制約がもたらしたものと考えることができる。
とはいえ翻刻本に限らなければ『日本詩人選』の八年前には既に定家本の代表的な伝本の一つである天理大学図書館所蔵本が呉文炳編『定家珠芳』(理想社、1967年)の題で影印本として刊行されているし、さらに執筆の前年には同じ天理大学本の青木賢豪による翻刻として和歌史研究会編『私家集大成 第三巻 中世Ⅰ』(明治書院、1974年)が刊行されている。1975年時点で塚本がどの程度の資料を参照しえたのか、また教家本に代わって定家本が重視されるようになる傾向をどの程度まで把握できていたのかは知る由もないが、この一首について「心の空」表記を採用する定家本にも接する可能性があったなかで、敢えて教家本の「心の底」表記を引用しているということもまた確かである。
まして『日本詩人選』以後、すなわち定家本に拠る翻刻が『藤原良経全歌集とその研究』『校本秋篠月清集とその研究』(いずれも1976年)と相次いで出版され、さらに後年の塚本が間違いなく典拠にしていた『新編国歌大観』(角川書店、1983年)でも第三巻の私家集編Ⅰにおいてやはり片山亨が定家本に拠って、
《さびしさやおもひよわると月見ればこころのそらぞ秋ふかくなる》(634頁)
と記載して以降も、塚本は「心の底」という表記を改めなかったのである。たとえば先に触れた1983年初版の『清唱千首』がそうであったし、また1979年初出の「百人一首中の新古今歌人」でも、
《寂しさや思ひよわると月見ればこころの底ぞ秋深くなる》
と引用して、やはり「心の底ぞ秋深くなる」という表現について触れ「この白面の貴公子はまだ二十二歳であつた」と書いている(『花月五百年』講談社文芸文庫、2012年、93頁。ただし初版は角川書店、1983年)。一方で、定家本の系統にあたる天理大学本の影印本(『天理大学善本叢書 秋篠月清集』八木書店、1977年)の月報に寄せた文章で塚本は、良経の作品中でも特に偏愛する一首だった筈のこの歌を取り上げていない。あくまで紙幅の限られた短文であるから意図的にこの一首を外したかどうかは定かではないが、月報を寄せている以上は1977年の時点でこの「心の空」表記を採る定家本の影印版を入手していたのは確かであって、その後もなお教家本に拠る「心の底」という表現に固執しつづけた背景には、塚本による「選択」があったと考えてもそうおかしなことではないだろう。
では、なぜ塚本はそこまで「心の底」というこのわずか一字の異同にこだわり、優位性が低いとされる教家本の表記を採用し続けたのか。塚本は1973年から76年にかけて「花月昏迷」(初出1973年)、「冥府の春」(初出1974年)、『日本詩人選』(1975年)、『雪月花』(1976年)と一年ごとに良経に関する文章を発表しているが、そのいずれも同じような主題のもとでこの一首、とりわけ「心の底」という表現を、良経を論じるうえで特に重要なものと位置付けている。もっとも『雪月花』では序文で紹介するだけで(5頁)、五十首選にも百首選にもこの歌を選んでいないから、実質上、問題となるのは他の三つの評論である。
三篇に共通しているのは、この歌の「心の底ぞ秋深くなる」という表現への絶賛と、それを支えたものとして良経の死への親近性という資質を挙げている点である。「すさまじい悲調」(「花月昏迷」『塚本邦雄全集10巻』174頁)、「辞世に近い深沈のひびき」(「冥府の秋」『全集10巻』106頁)、「この屈折した感懐、読む者の心を冥府に誘うかの暗い調べ」「幽玄様、鬼拉体も及ばぬこのうすら寒い鬼気」(『日本詩人選』121頁)と惜しみない賛辞を浴びせたこの表現を、塚本はそのまま良経の人生の暗さへと関連付ける。良経論というよりは新古今集を概観するような「花月昏迷」の時点ではまだ、38歳で夭折した良経をはじめ多くの新古今歌人の死を並べることでこの勅撰和歌集の行間に一抹の死臭を漂わせるにとどまっていたが、続く「冥府の春」『日本詩人選』では若くして兄・良通を亡くした経験がクローズ・アップされる。
若冠二十二歳の良経にここまで歌わしめたものは何か。勿論天才もあろう。そしてそれよりも二年前急死した二歳上の兄良通、その死者との言問いのゆえではなかったろうか。(『日本詩人選』121頁)
夢の通い路、それも死者と生者を結ぶ異次元の間道を良経は知っていたのだ。(中略)冥府と現世の夢の間道の扉は秋なる呪文で開かれ、時間の無い煉獄にさえ秋は闌けてゆく。心の底の秋の深みに良経の青春は始まろうとしていた。束の間の青春ではあったが。(同、122~123頁)
このあと塚本の筆はさらに先走り、良経の相聞歌を「月光との同衾とはすなはち黄泉との相聞」(131頁)と読み換え、そのごく穏健な表現を「近親相姦」「鶏姦」「死姦」といった強烈な色彩で塗りこめていく。もっともこれには古典文学の新たな読みなおしを図る叢書の一冊ゆえの過剰な気負いもあったのだろう。過激な読みは意図的なものである。事実、これに先立つ「冥府の春」では、良経の詩歌の美を具現すべき「悲劇」「魂の不幸」は「最愛の半身、兄良通との死別のみではない」(『全集10巻』207頁)としてむしろ、兄の死によって摂関家の家督を継がねばならなかったため定家のような職業歌人に近い立場に身を置くことができず、歌作もまた政治をつかさどる高位の人として行わざるをえなかったことを重視している。
ともあれ、塚本の良経読解の核をなす「心の底」という表現は、近親者の死に伴っておこる内面と外面、二つの危機と強く関係するものととらえられているといっていい。兄の死が直接にもたらした内面的、精神的な危機はもちろんのこと、塚本の目は同時に家督の相続に伴う思いがけない社会的責任の増大という外面的、社会的な危機をも見つめていたわけである。定家本系の「心の空」と教家本系の「心の底」との二者択一にあって、実証的、文献学的な価値以上に、かような良経の実存に想いを馳せたときよりふさわしいものを求める歌人にはおのずと後者の選択が要請されることとなったのだろう。
Deuxième partie
もうひとつ、塚本は良経を論ずるうえで大きな「誤読」をおかしている。先に挙げた、
《寂しさや思ひよわると月見ればこころの底ぞ秋深くなる》
の一首をめぐる「誤読」は、『日本詩人選』中の良経論(三章構成)のうちの第一章「心底の秋」という表題に採られるほど塚本の読みの根幹をなす要素であったわけだが、もうひとつの「誤読」もやはり同書の第二章で表題に採られている。「秋風逐電」と題されたその章は、第一章で「心の底」の一首を軸として形成された「死の歌人」良経というイメージをさらに展開し、続く時期の歌を引きながら、彼岸の生を生きる彼の目にはもはや現世はかりそめの世界としか映らず、
《心こそ浮世の外の宿なれどすむことかたきわが身なりけり》
末期の目によって眺められれば現在も未来もすべて過去にすぎない、
《見ぬ世まで思ひのこさぬながめよりむかしに霞む春のあけぼの》
といった歌人像を描き出していく。「四季も恋もすべて述懐の薄墨色にけぶる」(143頁)とか、
「口を衝いて生れる詞はすべて生への嫌悪、懐疑であり、それらの憂患も所詮は死にいたる病であることを知悉する彼の聖なる曳かれ者の哀歌であった」(144頁)
とか、
「そして幽玄とは人の滅び、後の世までつきまとう不幸を代償として成立する美のまたの名ではなかったろうか」(145頁)
といったアフォリズム風の言い回しを多用しながら、塚本は暗いトーンのもとに歌の読解と良経の伝記的記述とを絡めあわせ、そしてある事件へと記述を収斂させていく。その事件こそが表題にも採られている1200年の「逐電」事件である。
政変に振り回されながらも位人臣を極め、歌壇は新古今集の勅撰に向けて彼らを中心に動き始めるなかで、良経は正室を亡くす。その2日後、
「良経は慈円遊行の旅に従うかに邸を出、途中でただ一人逐電遁走をはかった。定家の後任家司兼時はただちにその捜索に赴き山崎のあたりで発見、あえない椿事に終る。いずこへの出奔を冀ったのか。いずこへであろうとも彼の希求は見事に絶たれ封じられた。すでに三十二歳、夭折を阻まれた詩人は前にもましてうつろな目を薄く開き、詩帝後鳥羽の傍に坐する他は無かったのだ」(150~151頁)
というのが、塚本の筆になる逐電事件の一部始終である。既に前章で「世にありながら良経はなまじいの出家以上に世を捨てていたのだ」(126~127頁)と良経の遁世願望の強さを指摘してはいたが、こうした隠遁志向の強さへの着目は塚本に限ったことではなく一般の研究者によっても共有されている認識である(谷知子「解説」『和歌文学大系』352~354頁)。
だが、この「逐電事件」は『明月記』の記述をもとに昭和の半ばから言われるようになった説だが、実際に相当な高位にあった良経がこのような事件を起こしたとしたら『明月記』にしか記述されないというようなことはまずありえず、これは本文の誤読に基づく「全くの誤りである」ことがわかっている(田渕句美子『新古今集 後鳥羽院と定家の時代』角川学芸出版、2011年、26~28頁)。これを指摘するうえで田渕は実際に塚本の『日本詩人選』を「魅力的な本」としつつも、この誤った説を踏襲した典型例として批判的に取り扱っている。
もっともこちらの「誤読」に関しては「心の空/底」問題とは違ってあくまで最近になって判明したもので、塚本は知る由もなかったことであろうし、『日本詩人選』の翌年、1976年に刊行された2冊の研究書も、
「良経はこのことによって、慈円の修行に同行しようと企てたが、途中連れ戻されている」(青木賢豪『藤原良経全歌集とその研究』280頁)
「もともと良経には隠世への志向があり、それが妻の死を契機に噴出したものか。もっとも貴紳良経はそれを貫行する強さに欠けていた」(片山亨『校本秋篠月清集とその研究』682頁)
といった具合に「良経逐電説」を事実として取り上げている。
かくのごとく塚本の執筆当時にはこの逐電事件は伝記的事実とされていたわけであるから、この点に関しては一概に彼の「誤読」と言い切ってしまうことは難しい。だが田渕が、
「兄良通の急死後に摂関家継嗣となったという劇的な転換、その和歌の美しさと隠遁志向、慈円との関わりの強さ、三十八歳で急死という悲劇性などがまとわりついている」
と指摘するような良経の人物像を、まさに「劇」的に描出しようとする塚本の筆の運びは、青木や片山の伝記研究に見られるそっけない書きぶりとはやはり異質のものである。塚本の手にかかると良経に見られる遁世願望もすべて若き日の兄の死へと還元され、彼に託された「死の詩学」を創作するための一要素へと変貌を遂げるのだ。塚本は歌人として、自身の審美眼にかなった良経の歌を軸として彼の伝記を極めて劇的に書き換えた。それは誤読は誤読でも「創造的誤読」、あるいはもはや、死の濃厚なイメージを良経の生涯に漂わせることで作品から彼の〈詩学=死学〉を逆算するような「創作」と呼んだ方が似つかわしいように思われる。
このように自らの文学的資質によって作品から読み取った「死」の主題を軸として伝記を書き換えることで、詩人の実存そのものをとらえようする詩論の試みという点で塚本の良経論とよく似ているのが、詩人ステファヌ・マラルメを論じたジャン=ポール・サルトルの文章である。若くして遭遇した近親者の死、それによって重くのしかかる社会的責任、死者の眼を手に入れてしまったがゆえにすべて過去と化してしまう未来……といった主題を、塚本の良経論とサルトルのマラルメ論は共有している。これまでのいささか煩雑な実証的手続き(の真似事)による「誤読」の洗い出しをスプリング・ボードとして、塚本の良経観が「死の詩学」とでも呼ぶべき方向に偏りを見せていることを確認してきた我々は、最後に〈塚本=良経〉と〈サルトル=マラルメ〉が共有するこの「死の詩学」の位相を検討することにしよう。そこにこそ塚本が良経という古典を恣意的に読み換え、創作していくことで一個の詩学=創作法を獲得するというインターテクスト的関係の根幹があるのだから。
Troisième partie
良経の歌才が22歳の「花月百首」において若くして開花をみた理由をその兄・良通の早世に求める、というのが塚本、とりわけ『日本詩人選』における彼の良経論の根幹にあった点については既に触れた。しかしこの見方は、そこから詩人的想像力を駆使して良経の全作品に死の翳を見るまでに到る論理展開をいったん不問に付すとすれば、まんざら塚本の偏愛から生じた過剰な読解とも言い切れない。塚本の『日本詩人選』に先立つこと2年、久保田淳をアカデミックな中世和歌研究の大御所にまで押し上げることとなった大著『新古今歌人の研究』(東大出版会、1973年)において既に、同様の見解がみとめられるのである。
「このように、兄良通の夭折という不測の事態によって、思いがけず九条家の後継者という、重責を伴う位置に立たされたのが、御京極良経である。かれの資質や時代環境を考えれば、それが果して幸福であったかどうかは、疑問に思われないでもない」(498頁)
とか、
「見ようによっては、漢詩好きの兄の夭折という不幸が、弟の歌人としてのこの開花を促したのだという非情な見方さえ、成立ち得るのである」(502頁)
とかいった文言をこの浩瀚な学術書に見出すとき、僕たちは絢爛たる語彙のために審美家としての独断に満ちてみえる塚本の良経論が思いのほか、当時最新の学術的な研究成果からそう遠くないところで書かれていたことに気付かされることだろう。良通の夭折をめぐっては塚本もまた良経の歌才の開花のみならず、同時に彼の双肩にのしかかってきた摂政家の家督の重みをも記述している。
「詩歌よりも先に彼の前には摂政の座があつた。無用者としてあるいは職業歌人として道に競ふこと以外に、政治に参加するのみではなく司らねばならぬ使命感が彼の胸の中にやうやく形を成しつつあつた」(「冥府の春」二〇七頁)
「処世の条件として歌を選ぶ必要は皆無であり、歌人である前に摂政の家に生れた政治家であらねばならなかつた。(……)良経にとつて和歌はまづ晴儀、何よりも賀歌制作を主眼におくべき祝詞の器であつた」(『雪月花』五頁)
方や位人臣を極める摂関家、方や登記所の小役人という差こそあれ、これと酷似した論理を展開するのがサルトルのマラルメ論である。マラルメが幼くして母親を亡くしたという経験に、サルトルは単純な精神分析的な性の問題以上に、その「母の死」という事件によってマラルメの前に開かれるのは祖父と父の姿であり、それが幼い詩人にとって象徴するのは自分の未来を支配する世襲としての仕事だと考える。
「母は姿を消すことによって、二人の父親のヴェールを剥いだ。孤児は母を通じて彼らを見ていたのだ。それが今では、この稀薄になった気体のなかで直立し、くっきりと浮彫りされ、等しく不吉なものである二人(祖父と父)は、人生の二つの時期における同じ一人の官吏を表わしている。そしてここに今、第三の時期がある。官吏の幼年期であり、それが彼らの足許で遊んでいる。少年には、彼らこそが自分の真実であることが分かっている。『お前はお父様と同じようにお役人になるんだよ。』(……)彼は、彼らに自分の未来を見る、すなわち、絶えず繰り返し始められる一族の過去である」(渡辺守章訳『マラルメ論』ちくま学芸文庫、1999年、150頁)
こうした記述を平井啓之は、サルトル自身が母と送った幸福な幼年期との関係を軸に、本来であれば母との密接な関係のもとで自由の幻想を抱くことができたはずであったのに、
「母親の死は、小児の未来の、三代目の官吏=父親となるべきだという拘束性と重なり合って、小児から一切の自由の幻想を奪い去ってしまう」(『テキストと実存』講談社学術文庫、1992年、168頁)
とパラフレーズする。むろん摂関家に生まれた良経とは違い、母の死が幼いマラルメに向けて開示したのはせいぜい地方の小役人としての将来に過ぎないのであって、良経のその後一生の歌作にのしかかる重圧と比することはできないかも知れない。だが、塚本とサルトルという2人の文学者による詩人論において「幼少期の肉親の死と世襲の問題」という伝記的事項が負わされるのはむしろ、サルトルの「彼は、彼らに自分の未来を見る、すなわち、絶えず繰り返し始められる一族の過去である」という記述からもわかるように、若くして既に自己の一生を父祖の姿のなかに見出してしまい、未来が全て過去のなかに回収されてしまうという文学的テーマである。
「彼が役人になることになっており、しかも役人というものはすでに完全にできあがっている以上、孤児は、(……)すでに完成してしまったものだという自覚を持つ。彼の人生は、完結して円環を閉じた、循環的な全体性としてそこにある。彼がその結末を知ろうとするなら、ただ目を上げればよい。(……)それに、人生は死においてしか全体とはならない以上、外界を母の死を通して見ることに満足できない少年は、自分の人生の展開を彼自身の死という視点から眺める」(『マラルメ論』、153頁)
というように、肉親の死をきっかけに世襲という自身の未来を支配する運命を見てしまった詩人=歌人の眼はもはや「死者の眼」「末期の眼」と化し、彼の未来に待ちうけているすべての出来事は過去にしか見えないのである(なお、こうしたマラルメにおける特異な時間構造は、たとえば父祖が象徴する過去による運命の支配から逃れるために墓所で服毒自殺を図る未完の哲学的散文詩『イジチュール』などの作品に色濃くあらわれている)。
こうしてサルトルがマラルメのなかに見出した死者の眼、すなわち「未来時が現在の瞬間に包摂されてしまっていて、しかもその現在とは、いわば永劫の回帰であり、つまり過去時である時間構造」(『テキストと実存』170頁)と同様のものを、塚本は良経に見てとっている。『日本詩人選』の塚本は、良経が二八歳のときに詠んだ、
《ふるさとの春を忘れぬ八重桜これら見し世にかはらざるらむ》
の一首に見られる「見し世」の一語を「すでに過去形でしか語り得ぬ生涯を暗示している」「死者の口を借りて現世を歌う趣」(148頁)と解釈しているし、また、
「過現未の三世を視、身を引き裂かれ、ついにそのいずれもおのが力の及ぶ界にあらずと覚り諦めた時、良経の夭い晩年、早きに失する一期の終焉は目前に迫っていたのだ」(162頁)
という文言も残している。
さらに良経の50首鑑賞である『雪月花』では、各歌に添えられた訳詩のほとんどに見られる「死」の語彙と関連して、解説にあたって塚本は良経における「時間構造」を重視している。たとえば、
《見ぬ世まで思ひ残さぬながめより昔に霞む春の曙》
には「この歌には複合した過去が内蔵されてゐる。すなはち『見ぬ世』とは前世、未生以前の時間、『昔』とは生れてから現在までのなかの旧い日月」(52頁)と、まさに「過現未の三世を視」る眼の持ち主として良経を描き出しているし(実際『清唱千首』32頁ではこの同じ歌を解説して「過去・現在・未来を別次元から俯瞰したやうな、底知れぬ深み」という評言がある)、同様の主旨のことを、
《心には見ぬ昔こそうかびけれ月にながむる広沢の池》
の解説(62~63頁)でも書いている。こうした現在に過去時の永劫回帰をみる「見ぬ世」「見ぬ昔」の歌とはまた違う、未来に待ちかまえる己の死すらも既視感をもってしか見られない良経の「末期の眼」についても塚本は、
《恋ひ死なむわが世の果てに似たるかなかひなく迷ふ夕暮の雲》
の一首を引いて「生きながら死後を予感想像するのは良経にとつてさほど珍しいことではない」(92頁)と書いているし、またアンソロジー『清唱千首』でも、
《後の世をこの世に見るぞあはれなるおのが火串の待つにつけても》
の評に、
「良経の眼は常に、対象を透き徹して今一つの世界を視てゐる。(……)作者には後世、すなはち死後の光景がありありと見えて来るのだ」(120頁)
という文言を用いている。
良経の作品中から死とわかちがたく絡み合った特異な「時間」の扱いという、きわめて実存哲学的な解釈を取り出そうとする塚本の読解は、『日本詩人選』『雪月花』『清唱千首』三冊すべてに引かれている特権的な数首のうちの一首、
《秋風の紫くだく草むらに時うしなへる袖ぞつゆけき》
においてはついに創造的誤読、あるいは意図的な創作の域にまで達する。この「時うしなへる」というのは『和歌文学大系』の註釈によれば「時勢を失っている」(106頁)という程度の表現で、有名な俊成の「源氏見ざる歌よみは遺憾の事なり」という判詞の対象となった良経らしく、これも典拠として源氏物語のなかの歌が挙げられている(325頁)。にもかかわらず塚本はこの一首、この表現について、
「まこと煉獄に時間は無い。停った時の断層に濡れてはためく人間不在の狩衣の袖」(『日本詩人選』、145頁)
とか
「超時空の真空状態」「時刻の移ろひも忘れて立ちつくす」(『雪月花』、100頁)
といった解釈を施しているのである。壮麗な解釈ではあるがどう考えても深読みの域であって、実際により一般読者向け啓蒙書としての色彩の強い『清唱千首』では塚本も、
「第四句の『時うしなへる』で、衣のみが、脱殻のやうに、野にはためく様を思はせる。『時うしなふ』とは失脚して出世の機を逃す謂」
といくらか妥協して折衷的な読みに変更している。ともあれ、塚本が良経を論ずるにあたってサルトルのマラルメ解釈と同様、若き日に経験した肉親の死と世襲の自覚を契機とする特異な時間感覚を、その最大の特徴として描き出そうとしていたのは明白である。
ところで既に触れたことではあるが、その死が(塚本による大きな「誤読」の一つである)逐電事件の発端であるとされた良経の正室について塚本は、その《すさまじく床も枕もなりはてて幾夜ありあけの月を宿しつ》という相聞歌を媒介として、
「うつろな目はすでにこの時(……)この世の外の愛以外は写していなかった」「月光との同衾とはすなはち黄泉との相聞、それも幾夜かを重ねていたのだ」(『日本詩人選』、131頁)
と書くことで、亡兄をはじめ親類縁者に相次いで出た死者とのネクロフィリア的かつ近親相姦的な性愛の香りを漂わせていた。良経において最も重要な意味をもった近親者の死は兄のそれであり、マラルメにおいては母のそれであったわけだが、前者にとって正室の死が反復として機能することで兄の死に性愛の匂いを添えたように、後者にあっても母の死は妹の死として反復されることでやはり性愛のニュアンスを強めることとなった、というのがサルトルによるマラルメ解釈である。
「結局のところ、彼が愛しているのは妹のマリアだけであり、それは彼女が彼と共通の母を奪われているからである。しかし彼女は、彼が十六歳の時に死ぬ。(……)彼はそこに、聖なる悲劇の再開を見ている。母の死が、繰り返されているのだ。(……)彼がひたすら祈りを捧げるのは〈大いなる女神〉に対してであり、彼女は、女というものが肉の愛以外のところで男にとってあり得るすべてのもののイメージとなるだろう。同じ一つの不在のなかで母と妹とを一緒にする、貞潔の白き女神である」(『マラルメ論』161~165頁)。
さらにいえばマラルメは死んだ妹と同名の女を娶っており、そのことと関連付けてサルトルは言う。
「彼の手紙にある『やさしい妹』、詩に歌われる『穏やかな妹』。位の高い恋は、好んで近親相姦の羽根で身を飾る。どうしても女と寝なければならないのなら、神への愛のためだ、我らの姉妹と寝よう。(……)このように妹と呼ぶことだけで、我々は俗悪な肉の接合の代わりに、物悲しく、倒錯的で、他とは区別された、位のある関係を作り出すことができよう」(107~108頁)。
サルトルも付け加えているように、妻や恋人を「妹」と呼ぶ近親相姦的な語法はマラルメに限らず象徴主義の詩人たち全般に好まれたものであるし、死んでしまった妻や恋人へのネクロフィリア的な思慕という主題は象徴主義の先駆者として祭り上げられたエドガー・ポー(『大鴉』およびその背景として「死んだ女が最も美しい」と語る『構成の哲理』を見よ)以来ずっと受け継がれてきたものであった。さらに言えば、マラルメにおいてこの種の「近親相姦的な死者との相聞」の主題はエドガー・ポー、ボードレール、ゴーティエといった詩人たちに対する挽歌をまとめた一連の「墓」詩群と呼ばれる作品にまで発展することで、性差を超えて作品へと昇華されることとなる。意図的か否かは謎のままであるが、こうしたマラルメにおけるネクロフィリックな主題系と響き合うかのように、塚本もまた良経の相聞歌における女性像に夭折した兄の影を重ねて解釈を施したのであった。
こうして塚本の良経論におけるいくつかの特徴的な点をサルトルのマラルメ論と重ね合わせることで見てきたわけだが、最後にこの二人による詩人論の最大の共通項である「自殺」の問題を取り上げておきたい。
サルトルは言う。
「マラルメは、自殺と詩とを同じひとつのものと見なした非常に稀有な作家の一人だ。そのアンガージュマンがいかなるものであれ、作家が真に自分の生命を賭けるならば、それもたんに投獄の危険を冒すことによってではなく、もっとはるかに深い意味において、自分に生命を賭けるならば、そのときこそ、全的な作家、全的にアンガジェした作家ということになるでしょう。鉄道の上に陸橋がかかっていて、マラルメはそこを通るたびに、つまり毎日、身を投げたいという欲望に捉われていた。彼はそれをせずに書いたのです。要するにこれ以上全的なアンガージュマンというものが私には考えられない」(『サルトルとの対話』人文書院、1980年、90~91頁)。
サルトルは『イジチュール』をはじめ自殺を主題とするマラルメの詩作品を具体的に取り上げたり、有名な「幸いにして私は完全に死んだ」という文言のあらわれる書簡を引用したりしながら、やはり『マラルメ論』においても同様の言及をしている。
「事実として、自殺は彼の最も中心的な関心事であり、彼の直接的で最も内密の可能性であることを止めないだろう。彼の作品はたえずそのことを暗示しているし、生涯の終りに近い時期にも、コーリュスに告白して言うには、ヨーロッパ橋を通るときには、通過する汽車に向かって身を投げる誘惑に駈られぬことはなかったと言う。さし当たり自殺を拒否することによって、彼は自殺を、自分の実存の不断の決定因とした」(204頁)。
この両方で取り上げられる鉄道自殺への願望は、最初の包括的な伝記の試みとして知られるアンリ・モンドール医師の『マラルメの生涯』に引かれているエピソードだが、サルトルはこれにとどまらず、マラルメが実際に自殺したのではないかという、実証的には不確かでしかない推測をいだいていたという。一九六六年にサルトルにインタヴューした平井啓之がその「強弁」を紹介している。
「私の考えでは――まあそれははっきりと証明されていないのですが――マラルメは実際に自殺したのだと思う。つまり、彼は奇妙な死に方をした。舌を巻き込んでしまったのですね。窒息しかけて危うく助かったのです。翌日、医者を呼びました。具合はよくなっていたのだが、とにかく呼んだのです。医者がやってくると、マラルメは『こういうことが起こったんだ』と言って、ふたたび舌を巻き込んでしまう。そして医者の目の前で死んだのです。(……)彼がこのような死に方をしたのは、なかば、彼の作品、一度も書かれたことがなく、ノートが残されているだけの例のオルフェウス的作品を未完成のままにとどめておくためではなかったか、と私は考えます」(『テキストと実存』、148頁)。
マラルメの詩作品における「死」あるいは「自殺」の主題系は別にサルトルに限った話ではなく、サルトルが参考にしたブランショの生涯にわたって思索し続けた問題であるし、そのブランショから影響された多くの批評家や思想家、意外なところでは日本の哲学者・田辺元までもがそれぞれの思索の道行のなかで追求してきたものである。とはいえ実際にその死が自殺だったとまで推測したのはサルトルぐらいなもので、その強引な解釈は他のマラルメ論と比べても際立っている。
ところで藤原良経の死もマラルメのそれに負けず劣らず奇妙なものであった。『和歌文学大系』の谷知子による簡潔な解説から引けば、
「元久三年(一二〇六)三月七日、良経は三十八歳の若さで急死した。朝女房たちが起こそうとしたところ、もはや冷たくなっていたという。他殺説も出るくらい、あまりにも突然の死であった」(350頁)
ということになる。『藤原良経全歌集とその研究』に付された詳細な伝記研究によれば、その死を伝える史料には愚管抄や源家長日記などがあるようだが、他殺説の根拠とされているのは尊卑文脈にある「於寝所自天井被刺殺云々」という記述らしい。ところが『日本詩人選』の塚本はこの尊卑文脈の記述を長々と引用したうえで、
「天井から矛で突き刺したのは誰か。その疑問に応えるものはついにいない。下手人の名は菅原為長、頼実と卿二位兼子、定家、後鳥羽院と囁き交される。否夭折の家系、頓死怪しからずとの声もある」
と探偵の真似事を始めたかと思いきや、こう結論付けるのである。
「良経を殺したのは誰か。神以外に知る者はない。あるいは神であったかも知れぬ。良経は天井の孔から、春夜桃の花を插頭に眠る今一人の良経の胸を刺した。生ける死者は死せる生者をこの暁に弑した」(167頁)。
他殺説こそあれ自殺などという根拠はもちろんどこにもなく、この描写はひとえにサルトルに負けず劣らず強弁を張る塚本の、純粋な想像力の所産である。良経の作風に一貫して「死」を読みこみ、『雪月花』では、表面上少しも不吉なイメージのない歌にも遠慮なく「死」の翳を詠み込んだ訳詩を付していた塚本である。「オルフェウス的作品を未完成のままにとどめておくため」マラルメが自殺したと考えるサルトルと同様、塚本もあくまで良経の作品から逆算することで良経の自殺という「創作」をその良経論の末尾に配するに至ったのであろう。
藤原良経を読む塚本邦雄にはいくつかの「誤読」が見られる、ということから僕はこの稿を説き始めたのであった。しかしそれら「誤読」はいずれも最終的には同じ「死」の詩として良経の和歌を読み換えようという試みにつながっている。客観的に見れば「心の空」と「心の底」の問題は定本とした写本の系統の違いに起因するものであったし、「逐電説」は当時一般の研究書にも事実として記載されていたという時代的制約があった。しかし二種類ある底本のなかからより信頼性の低い「心の底」を選んだのにも、当時の研究書でもそこまで強く描写されていたわけではない逐電説を非常にドラマティックに描き出してみせたのにも、ひとりの創作家としての塚本邦雄の明確な意志がはたらいている。まして相聞歌を死せる兄との関係で読み換えたり、さらには強引な読みという自覚がありながら「時うしなへる」という表現に観念的かつ形而上的な解釈を付したりするに至っては、これはもう到底「誤読」などとは呼べない、明らかに意図的な「創作」である。そしてサルトルのマラルメ論との比較で取り出された伝記的事項の解釈もまた、良経と「死」の主題系との関わりをより密接なものとして描写するための「創作」であった。
その「創作」は結局のところすべて、塚本が文献学者としてではなく、あくまで同じ創作家として読み取った「詩学=死学」を軸とした良経和歌の再構成に奉仕させられている。国文学者は良経の歌について文献学的な考証を通して、ときには語彙の変遷をたどったり、またときには隠遁への志向を読みとったりするのであるが、決してそこから自己の創作原理にまで高めうる「死学」を取り出すことはできない。非アカデミズムの人間として塚本は実証的な学術論文ではなく、あくまで一人の創作家として良経の和歌や伝記が孕んだまま実現されずにいる可能性を臨界点(le point critique)にまで推し進めることで、最良の「批評」(la critique)を書くことにより、自身の創作=創造(poïétique)の原理としての詩学(le poétique)を結晶させるにいたったのである。僕はこの「死学」としての「詩学=創造」を仮にnecropoeticaという造語によって呼称することにし、この論考の表題として掲げた。しかしこうした詩学の樹立はあくまでテクストを読み、読み換え、書き換えるという、それ自体が「創作」であるような作業を通じて達成されたのであり、またそれこそが塚本のいう「古典と刺し違える」ことの内実だったと言えよう。
事実、塚本は小説『藤原定家 火宅玲瓏』(人文書院、1973年)の冒頭に良経の死を配し、自己の分身たる主人公・定家がその犯人を推理するうちにはたと自分自身の「内にこもる殺意」(19頁)に気付くところから物語を始めている。良経の「死の詩学」に基づいて、塚本は『日本詩人選』では良経自身に、そして『藤原定家』では一人称の語り手たる定家にそれぞれ自己を擬することで、良経の詩学を完成させるべく「死」を与えるのである。しかし良経から塚本への「死学」の継承も、その継承者たる塚本による良経の殺害も、いずれも書斎のなか、テクストのうえで起こる事件に過ぎない。良経を殺したとき、塚本はアームチェア・デテクティヴならぬアームチェア・マーダラーであった。国歌大観をはじめとする膨大なデータベースをひろげ、読み耽り、そこにひそやかな創作を加えることでプログラムを書き換えていくという隠微なハッカーのような作業。そこで行われているのは「古典との否定問答」とか「師弟関係」などという言葉であらわされるような精神論的、根性論的、保守的な関係構築では断じてなく、知的遊戯としてのミステリにおける殺人のような一種の「テクストの快楽」「データベースとの戯れ」に基づいた操作だったのである。
Épilogue
シャンソンとして愛唱されるギヨーム・アポリネールの有名な詩「ミラボー橋」からその有名なルフランを引用した一首が『日本人靈歌』にある。
毛深き犬がかたはらに臥(ね)てこころ今ゆたけし〈Les jours s’en vont, je demeure.〉(日日は過ぎわれはとどまる)
塚本はわざわざ出典を示してこの詩句の出典を明示しているけれど、僕はこの裏側にアポリネールのほかにもう一人の詩人・藤原良経の、
《恋しとは便りにつけて言ひやりき年は還りぬ人は帰らず》
を思い出す。塚本はこのアポリネールによく似た詩句をもつ良経の一首について幾度も語っていながら、一度もその関係について語ってはいない。しかしよく見ると『雪月花』でこの歌に付された訳詩の最後の一行に「私は停(とどま)る」のフレーズが隠されている以上、塚本のデータベースにおいてはフランス近現代詩と古典和歌と現代短歌とが混在しているに違いない。そして、それらを混ぜ合わせるという遊戯的な操作のなかでこそ塚本は先人のテクストを受容し、ときにそれを自身の創作に活かしていたということがよくわかる。そこには「師弟関係」「否定問答」のお説教臭く修養めいた響きはない。
そして同じルフランの響きを後年の良経がさらに変奏してみせた別の一首と、それに付された塚本のカリグラム――そう、カリグラムこそアポリネールの十八番でもあった!――による訳詩とを読むことでこの稿を閉じよう。そのとき僕たちは塚本邦雄によるフランス詩と古典和歌との遊戯的協奏のさなかにこそ、あそびたわむれつつも仄かに漏れ聞こえてくる「詩学=死学」の音色を聞き分けることができるはずだ。いたずらに似非僧侶のようなしかめっ面をして師の歌と「否定問答」など繰り返していても、この悲痛な音色にはとうてい到達できないだろう。引用は『雪月花』(114~115頁)より。
嵐吹く空にみだるる雪の夜に冰ぞむすぶ夢はむすばず
妹よそなたには見えるか
夢とうつつをへだてる
薄い一重の冰の膜が
はりはりと破れる
うつつそのもの
雪はその上に
霏霏と降る
夢は凍り
他界は
近い
夜
弟よ
君には
聞えるか
嵐の叫びが
雪は天の奥で
耐へ續けてゐた
この世から立昇る
汚れた魂のけぶりに
もし私達に宥されれば
せめて華やかな凍死願望
(le 19 avril 2014)
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