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みんながいたから

2010年4月。僕は大学生になり、親元を離れた。

初めての一人暮らしだった。初めて借りた部屋。それは、食堂のついた学生マンションの6畳ワンルームの部屋。引っ越しを終えたあの日、両親が帰っていく車が見えなくなるまで見送った。初めて登校する日、好きだった野球選手であり今年からコーチになった読売巨人の木村拓也コーチが球場で倒れ、亡くなった。

学生マンションであるとはいえ、誰もいない部屋で寝ることの寂しさや不安もあったけど、この部屋は大学と最寄り駅の間のいわば通学路の途中にあった。だから、時が経ち気が付けば、たくさんの友達が出入りして、集う場所になっていた。

夜には、近所の中古楽器や古本を売っている店へ散歩がてら行ってみたり、バイト帰りの友達が立ち寄っては急に寿司パーティーが始まったりと学生生活を謳歌していた。たくさんお酒も飲んだし、色恋沙汰だって多少はあった。そんなこんなで、1年が過ぎようとしていた。

もうすぐ大学2年生になろうという3月。

かの震災が、まさに僕の住む東北地方。仙台市を被災地へと一変させた。

大きな揺れを感じて、必死で部屋の外へと逃げた。マンション全体には、学生が住んでいたが当時は春休みの真っ最中で、帰省していた人も多く、部屋数よりも実際にいた人数は少なかったが、一斉に住んでいた学生が外へと出てきていた。そこで初めて顔を合わせる人も多かった。

住んでいる地域の被害は、人が亡くなったりするような被害はなかったが、一帯は停電した。

電気がつかない。日没に向かってどんどん暗くなっていく中、倒れて割れたガラスの衝立を直して、住人の安否、在宅か否かをみんなで手分けして行った。

それで、その年にそのマンションに住んでいた学生たちは、出逢い、協力してどんどん仲良くなっていった。

食堂はプロパンガスを使っていたので、コンロを使い、余っていた食材でカレーを作った。隣近所のおうちにも、配りながら足りない物を補い合い、いつしかその学生マンションの食堂は、災害拠点のようになっていた。

地域の人が出入りし、小さな子供たちの遊び相手になったり、不安そうな子を慰めたり、僕ら学生は協力して、震災を乗り切った。

震災の被害が明らかになると共に、みんなが落ち着きを取り戻した頃には、同じマンションで生活する中でも交流があり、あれから8年経った今でも仲良く連絡をとりあっている。

あの日、あの時、僕は、あの初めて借りた部屋に住んでいなかったら、今この友人関係はなかったかもしれない。それに、あの部屋で出会った1つ下の後輩と今年の3月に入籍した。

あの部屋が僕の大切な一人暮らしを支え、そして、僕の人生の大切な1ページ…いや、数百ページを彩っています。

それがサーカスタウン市名坂という僕が初めての一人暮らしで住んだ場所。初めて借りた部屋です。


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