道徳「1」(後編)

成人式を迎える前に
両親を亡くしたものだから
コミュニケーションの取り方もわからない。

叱ってくれる人もいないから
何が正しいのか間違いなのか
わからなくなる。

みんながやっているから
いいだろうという認識で
モラルなどお構いなしに
自由気ままに過ごしてきた。

周りから嫌な目で見られて
時よりマジギレされることもあった。

でも怒られている意味もわからず
それでも自分自身突き通していたことが多かった。

ペンの握り方、箸の握り方なども独特で
誰にも注意されることもなく
社会人になった。

注意されることは決して
気分がいいわけではないけれど

注意されて初めて
過ちに気づくことが大半で
20代のころはそれが毎日のように続いた。

子どもを育てる以上は
叱ってもいいから
どうか見放すことはやめて欲しい。

私のようになってしまう。

犯罪も平気になる。

ありがたみ、長所など
その人の原動力も失ってしまう。

だから同じような人が増えて欲しくないから
自助会を立ち上げたのもある。

大学は、学費を納められず
除籍スレスレまでいったことがある。

それでもなんとか耐えて納めて
大学を卒業することができた。

中退の文字はなく
頑なにいろんなものを犠牲にしてまで
卒業することができた。

憧れのキャンパスライフとは程遠く
修行として4年間過ごしていた。

どうしようもなかった時期は長く
社会人になっても暫く続いた。

支援学校の常勤講師として働く。

教員採用試験は新卒では受けなかった。

人格や学力において
無理だろうと感じた。

受けなかったというか

用意をそろえたつもりが
まさかの受験票を用意するのを忘れた。

受験会場の前に気付いて
途方に暮れて近くのパチンコ屋で
スーツ姿で打って過ごした。

教員採用試験に対して本気度が欠けていた。

情けなかった。

代わりに障害者スポーツセンターで
バイトしていたコネで
名古屋市のスポーツセンターの
試験を受けた。

嘱託職員(契約社員)として受かった。

1次と2次と2回
愛知県まで行って試験を受けた。

しかし、これまた不可解な行動を
とってしまっていた。

それは名前の漢字。

本名は「長谷川琢弥(たくや)」
だけど名付けた父親のことが嫌いで
尚且つ実際に
よく間違われることがあった。

勝手に「拓也(たくや)」と
名乗っていた時期があって
試験でも「拓也」表記で受けた。

身分証明でセンター側が気付き
本人が受けたことにはならないと
ややこしくしてしまい結局
辞退することになった。

どうしようもなかった。

全くのノープラン。
先のことなんてわからない。

引っ越しはどうするのか
どうやって手続きを済ませるのか
お金はあるのか

心機一転を試みて
あえなく撃沈。

あまりにも惨めすぎた。

結局、大阪府の教育委員会で
常勤講師の登録をして
支援学校で働くことになった。

親がいないまま1人で行動しようものなら
こうめちゃくちゃになってしまう。

だから同じような子が増えてしまわないように
自助会を立ち上げた。

これは切実な願い。

居場所の存在に気づくだけでも
変わるかもしれない。

当時を振り返ると
親のこと関係なく
発達障害関連で頭を抱えていたと思う。

家庭環境で障害が悪化してしまった。

どうしようもなかった変わり者。

社会人になっても暫くは抜けなかった。

発達障害に関しては
大学で学んだものの
私自身も該当するとは思わなかった。

働いて気付いて
支援学校の仕事を辞めて
転職も経験した。

障害を通じて
自分自身と向き合って
少しずつ改善していった。

自転車旅でたくさんの人と出会った。

たくさんの人に救われた。

この人のためにがんばろう。って思えた。

同じような悩みを抱えている人を
救ってから死んでも遅くはない。

だからもう一度頑張ってみようと思った。

文章やらめちゃくちゃで
申し訳ないけれども
こんな感じです。

少しずつ道徳を学び直して
人並みに追いつけるようにします。

ありがとうございました。

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