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短編小説「蟹鍋」

部屋の中央には無印良品の小さな折り畳みテーブルがある。卓上にはカセットコンロが置いてあり鍋を温めている。ぐつぐつと沸騰しだしたので弱火にした。
鍋の中には、大きな蟹が丸ごと入っている。鍋から足がはみ出し、道楽的な見た目になっていた。
テーブルを挟んで対面に座っている彼女は呆然としていた。今日は鶏肉でちゃんこ鍋を作るはずだった。しかし、目の前の鍋には大きな蟹が入浴中だ。呆然になるのは仕方がない。
「……蟹が安かったの?」
彼女は、蟹から目線を逸らさずに僕に質問した。
「いや」
僕は、おたまを持った右手を宙ぶらりんにしながら否定した。
「じゃあ、どうして大きな蟹が入っているわけ?」
彼女の口調が少し強くなった。
「台所のひらきを開けて鍋を取り出そうとしたら、鍋の中で死んでたんだよ」
「はあ?」
最愛の彼女に田舎のヤンキーみたいな表情をされても僕は事実を話しているのだから仕方がない。台所のひらきの中で大きな蟹が死んでいたのだ。僕は気持ち悪くて触れなかった。鍋にそのまま入れておくしか策はなかった。
「意味わからないんだけど」
彼女にそう言われたが、それは僕だって同じだ。
「どうしてウチに大きな蟹がいたわけ? 心当たりないわけ?」
心当たりなんてあるわけがない。大きな蟹だぞ。……しかし、そこで僕はあることに気がついた。
「もしかしたら、この前炊いたバルサンのせいかも」
彼女は、無言で僕を睨んだ。そりゃそうだ。バルサンのせいだったとしても、まず大きな蟹はどこからやってきて、いつからいたのだろう?という謎が残る。
ぐつぐつという音だけが部屋に鳴り響く。
湯気がバルサンの煙のように見えて、息苦しくなった。


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