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24歳(社会人2年目)に読んで泣いた本を40歳(社会人18年目)にもう一度読んで気づいた現実

2003年の10月、24歳なりたての社会人2年目。この部分を読んで、何度も、うなづき、感極まって泣きながら、赤いボールペンでグリグリと何度も何度も線を引いていた。

人は、自分以上に見られても、自分以下に見られても、機能だけで部分的に切り取られても傷つく。それ以前に、外側だけで「おまえは何者か?」と値踏みされるような行為自体に傷つく存在なのだとわかる。  
そこには、「自分の内面に基づく、相手とのつながり」がないからだ。  
就職活動の若者だって、傾向と対策を仕入れ、うそで固めてでも結果が欲しいだけなら、そんなには消耗しない。どんなに「内定さえ出れば」と口では言ったとしても、では、履歴書の自分の長所を書いては消し書いては消しするのはなぜだ。面接官のひと言に、悔しさが消えないのはなぜだ。無意識に求めているのは、自分として会社に認められることだ。だから、自分を伝えることに誠実で熱心な人ほど、うまくいかなかったとき痛手を負う。  

彼らの志は高い。自分の想いで人や社会と関わることを目指している。

理解してもらえた、と思った。自分はこれでいいんだ、間違えていないと思えた。

全然ダメ

百歩譲って、そこで泣きながら、線を引くまでは良い。でも、「自分はこれでいいんだ」なんて思ったら負けだし、正直、かなり間違っている。

どこが間違っているかというと、例えるなら、本書は「勝つだけのサッカーに魂を売らない人は志が高い」と言っているのに、当時の自分は「自分たちのサッカーができれば負けたって志が高い」って誤読している。

以下は、先週引用した「論語と算盤と私」にある、元サッカー日本代表監督の岡田監督のインタビューからの抜粋。

それこそ、「勝つサッカーか、自分たちのサッカーか」なんてよくいうけど、どちらかだけでいいなら、メチャクチャ簡単です。勝つだけでいいなら相手をつぶしにかかる方策はいろいろある。ただし、そんなことは長続きしない。逆に、自分たちのサッカーができれば負けたっていいというなら、それはもっと簡単です(笑)。結局、両方追わなきゃいけないから大変なんです。

この例えで言えば、本書は「自分たちのサッカーで勝つにはどうすればいいか」を書いている。全体の語り口が優しく寄り添うように書かれているが、正しいがゆえに、ものすごく難易度が高い、「修羅の道」の話をしている。

例えば、この部分。

コミュニケーションの入り口で、すみやかに信頼をつかむには、「意志」で自分を証明する、「相手理解」に努める、相手から観た自分の「メディア力」を量りながら発言する、の3つが有効だ。信頼の門をくぐって、はじめて、あなたは、もっと大胆に、もっと想いに忠実に、意見が言えるようになるだろう。

本質。

無理やりサッカーに例えるなら、「自分のチームのフィロソフィーを確立し、相手チームの戦力や戦術を理解し、相手チームが自分のチームをどのように分析して、どういう作戦を練ってくるかを読み切って対処する」というような話で、その前提には、チームの個々の能力が相手とそれほど大きく違わない程度まで鍛え抜かれていることが担保されていなければならない。

しかし、世の中はもっとライトに「勝つサッカー」のウエイトを高めて、勝っている人がたくさんいる。

自分の思いにフタをしてでも勝たなければいけない場面はある。凡人ならなおさら。

それでも「自分たちのサッカーで勝つ」、言い換えれば「自分の想いに忠実に生きて、しっかり結果も出す」という道を選ぶには、相応の覚悟が必要ということ。

その意志と覚悟はあるのか?どこかで割り切るのか?

毎週note書いてます

毎年この時期は、心が引きちぎられそうになる。来期の構想を考えつつ、期末に向けて、結果を残さないといけない。

※今回は、11月17日(日)~11月23日(土)分の週報になります。

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