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当たり前の日常

一昨年父が亡くなりました。何せ転移の連続でしたが、最期は肝がんでした。

そして、昨年。元部下が難病を発症して思うように働けなくなりました。知人の小さいお子さんも難病と診断され、現在も小さな身体で懸命に闘病されています。また、私よりも全然若い取引先の社長さんも昨年末病で亡くなられました。

この2年間はとても価値観(死生観と言い換えてもいいかもしれません)の揺さぶられる出来事が多かったんです。そもそもnoteを始めようと思った動機の一端は、立て続けに周囲で起きたこれらの出来事にあるのかもしれません。


当たり前の日常なんてない

彼ら、彼らのご家族は、ある日唐突に日常の風景が一変しました。日常が奪われた、と感じている人もいるかもしれません。

昨日の延長線上にある今日、今日の連続としてある明日。お恥ずかしい話、齢40歳を過ぎるまでそれは当たり前のように来るものだと信じていたんですね。

でも、わたし全然間違えていました。

今日と同じ明日が来る保証なんて、誰にもどこにもなかった。そのことをようやく実感と恐怖を伴って知りました。彼らや、彼らのご家族を通して。

だから一日一日悔いのないように生きよう!…なんて言えるほど聖人君子でもなければ、達観もできていません。むしろ、チキン野郎です。

明日唐突に日常が寸断されるかもしれない。めちゃくちゃ怖いです。でも、それは誰にだってあり得ることだと、身近な人たちに起きた出来事によって思い知らされました。

そして、コロナ襲来

私たちはこれまでの当たり前が、実は当たり前じゃなかったことを、今ものすごく思い知らされています、コロナによって。

日常はいとも簡単に姿を変えます。否応なしに、無慈悲に、突然に。

その恐怖はたぶんずっと付いて回ります。それを受容するための装置が宗教だったりするんだと思いますが。

「当たり前の日常が、実は当たり前じゃなかった」と知れたことで、一つだけ決めたことがあって。


気を遣うことをやめました。


別に傍若無人に振る舞うと決めたとかじゃなく。人に気を遣うとか、空気を読むとか、本当に相手のことを慮っているのならいいと思うんです。でも『気を遣っている』ことを言い訳にして、大小関係なく諦めていること多くないか?そんなふうに考えるようになりました。

それを実践したからといって、後悔しないかどうかは分かりません。でも、明日が当たり前じゃない以上、できるだけその日やり切ってみる気持ちでいようとは思うんですね。

だから、遠慮も気兼ねもやめて、自分の可能性を探ってみようと思いました。それがこのnoteをはじめた理由だったりします。

今日も日常があったことに感謝をしながら、色んなことを綴れる場所になるように。


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