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9.おばあちゃんと恋愛

独身で四十路を迎えたとき、ふと思った。

「もう一生、誰とも恋をしないで生きていくのかな」

祖母に「いちばん最後に恋をしたのは、いつ?」と聞いたのは、そんなときだった。

大正生まれの祖母は、戦争中に顔も知らないひとと20歳で結婚し、戦後わたしの父を産むとすぐに離婚、以来、水商売で生きてきた。

祖母はわたしの唐突な問いに少し考えたあと、はっきり「54歳」と言った。祖母はそのとき90歳だった。

祖母が最後に恋した相手には、妻子がいた。祖母の店の客で、近所の工務店の社長さんだった。恋仲になってからは、店には来させないようにしたと言う。
「そういうのはね、隠そうとしたって、それとなく知れちゃうんだよ。ほかのお客さんに悪いから、来ないでって言ったの」
 そのかわり、週末はときどき一緒に過ごした。温泉旅行に出かけたり、ゴルフをしたり。
「お友だちなんかの話を聞くと、男のひとの荷物持ってやったり、背中流してやったりするみたいじゃない? おばあちゃん、そんなことひとつもしてやらなかったよ」
「尽くさなかったの?」
「尽くさないよ。男なんていうのはね、すーぐ調子に乗るんだから」
 祖母はちょっと悪い顔をして、にやりと笑った。

「ねぇ、もしかして、あの時計そのひとにもらったの?」
 わたしは祖母から譲り受けたTUDORの時計のことを思い出した。祖母は肌身離さずつけていたけれど、あるとき、なくしたと思ったらトースターから出てきて、「ヘルパーさん疑っちゃってさ、自分がぼけただけだったよ。本当になくしちゃう前に、渡しておくわ」と、くれたのだ。

 あの時計は、わたしくらいの年頃のときに、お客さんからお土産でもらったと聞いていた。
 祖母の40歳といえば、30歳ではじめた店も軌道に乗っていただろうし、息子であるわたしの父も高校を卒業して、独立している。両親も看取り、自由になったタイミングだったのかもしれない。

「奥さんから奪っちゃおうとか、思わなかったの?」
「思わなかったね。ひとりが気楽だもの」
「ふうん。自由を謳歌したかったんだね」
「そうだよ。自由がいちばん」
「ふーん。で、54歳で、その恋は終わったんだ?」
「うん」
「なんで?」

 お茶をすすりながら話すあのときの祖母の横顔を、わたしは一生忘れない気がする。
「死んだの」
「えっ?」
「死んだんだよ、胃がんで」
 具合が悪いと病院に行ったときには、すでに手遅れだった。もっとも40年近く前の話である。当時のがんは死の病だったろう。
「で、どうしたの? お見舞いに行ったの?」
「ううん。奥さんがいたでしょう。だから、行かなかったよ」
「えっ、じゃあ、会わずじまい?」

 一度だけ、一時退院してきたときに、会ったと言う。
「なにしたの?」
「お昼ごはん食べた」
「なに食べたの?」
「うなぎ」
「おばあちゃんの大好物じゃん」
 んふふ、と祖母は含み笑いした。
「なに話したの?」
「なに話したっけねぇ。退院したら、また温泉に行こうなんて、話したっけね」

 それがそのひととの最後になった。祖母はお葬式にも行かなかった。

「背中くらい、流してやればよかったね」
 と祖母が言うから、
「尽くしてあげればよかった?」
 と聞くと、
「うん、んふふ、男なんていうのはね、尽くしてやるんじゃないんだよ、尽くさせてやるんだよ」
 と言った。

 祖母の最後の恋の話を聞いて、5年が経つ。わたしはあいかわらず誰とも恋をしていない。90歳になったときに、祖母みたいな横顔で話せる恋を、いつかしてみたいものだと思う。
 そんな祖母は93歳でこの世を去ったのだが、その話は、また今度。


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