藤田俊太郎 師・蜷川幸雄の思い出。その3 ゴールドシアターのプロンプとして学んだこと。稽古場で自分の居場所を見つける。
長谷部 稽古場の蜷川さんについて、僕は「グリークス」のときは毎日見てたから、そのくらいまではよくわかってるんだけど、やっぱり、ずっと批評家がいるわけにもいかないから、あんまり行かなくなって、そこから現場で起こっていることは、よくわからなくなっちゃったんだ。2000年周辺と、それ以降を比べると、もっと忙しくなったよね。作品数が増えたでしょう。
藤田 たまたまだと思うんですけど、蜷川さんはそれも頭にあったと思いますね。「このままじゃ助手の人数が少ないな」って。たくさんいたんですけど、「もっともっと」と思うんですよ。僕と話したタイミング、まさに2005年が、入った年が、蜷川70年イヤーだったと思うんですけど、Bunkamuraで4本あったりだとか、年間もの凄い数だったんですよね。
長谷部 あの時すごかったね。
藤田 10本近くやってたと思います。それで、その次の年からゴールドシアターが始まって、そのさらに次の年からネクストシアターが始まるので。蜷川さんの頭のなかにはゴールド・ネクストというのがあって、スタッフも育てたいというのがはっきりあったと思います。
だから、僕に声をかけてくれたんじゃないかな。もちろん僕から言ってるってこともあるんですけど。自分の周辺が新しく変わっていくっていう疾走具合が、おっしゃる通りです。
長谷部 そうなると、どんどん蜷川さんの演出作品が、ファクトリー化していった気がしない? アンディ・ウォーホルだって全部自分でアイデアからシルクスクリーンの仕上げまで、やってたわけじゃないし。ゴールドは、(井上)尊晶さんが主には演出したんでしょう。蜷川さんは、最初から最後まで、ベタに演出されていたわけではないよね。
藤田 まさにおっしゃるとおりです。今ファクトリーって言葉が出たように、実際ファクトリーっていう公演をやったんです。「間違いの喜劇」の時、蜷川さんはファクトリーって言葉を多用してたんですよ。
ここは、仕事場なんだってことを、僕らにものすごく言い聞かせていました。どんどん生産していって、蜷川ダッシュというものを作るわけじゃないですけど、僕ら周りにすごく任せはじめていました。
もちろん、任せながら全責任をちゃんととるからっていう若者教育、スタッフ教育を実はすごいしてましたよね。尊晶さんがゴールドシアターをやって、僕は本番残っているだけですけど、プロンプターという役割りがありました。プロンプターっていう役割りがあるからこそ、団員とものすごく親密に関わることができました。
「駄目出しもどんどんしていい」って言われていました。ゴールドにかんしては、「どんどん関われ」って言われていました。
これは、僕にだけに言っていたわけじゃないんですけど、「気になるところをどんどん言え」って言っていたので、それはある種、ちょっとは任せてますよね。
もちろん蜷川さんがゴールド全体に言うこともありますし、尊晶さんが言うこともあります。だから、僕も役割りを発見して、僕にできることは、台詞を覚えさせることだって。(ゴールドの俳優さんは、年齢もあって)本番入ってもなかなか台詞が入らないですから(笑)
長谷部 入らないよね(笑)
藤田 一緒に台詞合わせをやってました。本番入ってもやってました。でも、それはすごい大事なことで、そのなかでも僕が発見して、「ここはこうなんですよ」って言えることがありますもんね。
それを発見できる状況と構造を蜷川さんが作ってました。ケラ(ケラリーノ・サンドロヴィッチ)さんの「アンドゥ家の一夜」という作品では、プロンプに入ってました。
台本があがるのが遅かったっていうのももちろんありますけど、無謀な挑戦です。ゴールドでケラさんっていう。
ただ、蜷川さんは、台本に関しての文句は一言も言わなかったですね。絶対言わないですよね。「遅い」っていう言葉を一回も使わなかったですし、どうしたかっていうと、蜷川さん自身がプロンプターになったんです。
僕だけじゃなくて、あの時は、プロンプターが5人くらいいたと思います。本番ずっとプロンプやってました。
年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。