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實は、去年、これのおふくろが亡くなりまして・・・・・・(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第三十六回)

 渡辺町時代に書かれた代表作ほひとつに、中央公論に断続的に連載された小説「寂しければ」がある。
 死んだ妻の命日に息子を連れて寺まいりにでかけた「わたし」は、帰りに食事に寄った根岸の「笹の雪」で、昔なじみの五秋さんに出合う。

 かつて小梅の宗匠のところで俳句をともにしていた仲間である。五秋さんから、拈華さんの話がでる。宗匠は、露心庵の跡目、名跡を継ぐものとして拈華さんを考えていた。
 しかし、拈華さんは、吉原の仲の町にいたお女郎と大阪に出奔したという。
 五秋さんは「わたし」の近況を聞く。

「實は、去年、これのおふくろが亡くなりまして・・・・・・」
「あの、御新さんがでございますか?」
「へえ。」
「それは、それは。ーー少しも存じませんで・・・・・・」
「・・・・・・」
「お寂しくつていらつしゃいませう、それは・・・・・・」
「漸く、まァ、すこしは馴れましてゞすが・・・・・・」
「去年の、しかし、いつごろ・・・・・・?」
「暮れでございます。・・・・・・十二月ももう押しつまつたところで・・・・・・」
「・・・・・・」
「申すと、今日も、日曜といふところで、子供とその寺詣りにまゐつた、いま、かへりでございます。」
「さうで入らつしやいますか」

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。